お勉強のアウトプット:小説のストラテジー
厳密な教育を受けて来た人については「ストラテジー、オペレーション、ロジスティクス、タクティクス」についてきちんと整頓して語ることが出来るはずだ。そしてこの国の経営者の多くはストラテジーをしばしばオペレーションと混同して語る。
な、げ、か、わ、し、い。
この書においてストラテジーを展開するにあたり、ヴィロネーゼの『カナの婚礼』における視線の運動、それを為らしめる原理の仔細な(ややもすると偏執的な)観察が提示される。そして下記のテーゼ。
<物語だと我々が思い込んで読んでいるのは、しばしば、「運動」のことである>
情報の正しい伝達を第一義とするのであれば、小説も詩も必要はない。物語である必要も薄く、プロットを箇条書きにするのも過剰なくらいだ(尤も、人類はただの記号も物語として「読んで」しまうのだけれど)。
わざわざ小説に書き延ばすのは、物語を伝えようとするからではなく、物語を場面に展開し、人と人、人と物、人と事を出会わせ、そこに起こる運動に言語による変速を加え、移行やコントラストで固有の形を作り出したいからです。
表現と享受の関係は、通常「コミュニケーション」と呼ばれるよりはるかにダイナミックなもの、闘争的なものだと想定して下さい。あらゆる表現は鑑賞者に対する挑戦です。鑑賞者はその挑戦に応えなければならない。
この書はブランショやロラン・バルトを前提に書かれているという事を一応追記しておく。作者のバックグラウンドに耽溺してはならない。作品のそれが齎す固有の印象を、その印象を駆動する回路を、蛇の執拗さで追い、記述せねばならない。
ところで『ゾンビランドサガ』続編おめでとうございます。サングラスの男が諸手を挙げ、佐賀の崩壊を祝福している(?)キーヴィジュアルを観て「そんな話だったか?」となったが「いや、そういう話だったな」ってなりました。
宇多丸のアイドル史観(そう、どうやらアイドルにも荘厳な時代の流れと呼ぶべきものがあるらしいです)の変奏として『ゾンビランドサガ』を読むという読み筋もあるでしょう、例えば、昭和的なるものと平成的なるもののコンフリクト、とか。でも、それだけじゃ足りないんだ。
首を捻じ切る勢いで話を戻す。「我々が反応しているのは記述の運動であって、プロットでも物語でもないのかも知れない」という仮説は1ページを待たず、物語が不要か否かという問い自体が無効なのであり、「問われるべきは、物語はどの程度必要されるか、であり、それは、どのような記述が想定されるか次第です」と喝破される。
そしてロシアを「ロマン主義的なトラジコメディの美学が尾を引いているためでもあります。描写は、記述の速度を読者が眩暈を覚えるぐらいに上げる為、あえて犠牲にされています」、「ナボコフがドストエフスキーの描写として挙げている部分は、前後のコントラストを作る為に、敢えて、速度を落とした部分です」、「ドストエフスキーは最悪の意味でのプロ作家として活動していた」と牽制しつつイギリスを経てギリシアへ。
詩人たちは地の文の部分を普通に語り、鉤括弧の部分を俳優のように演じたのです。
前者をディエゲーシス、後者をミメーシスと呼ぶのはプラトンがこの指摘の際に用いた用語によります(略)。英語ではtellingとshowingとすることもあるようです。
ディエゲーシスとミメーシスの対立を軸とし、謎めいた第三項、「声」を導出しつつ、タクティクスがどのように展開されていくか、または、どのように読み解かれるべきかが示される訳だが、それこそ醍醐味と言うべきものなので、そこは原著に譲る。
生身のナボコフというのは兎も角嫌な男です