そしてその曲は大変に美しいのだ
ケン・リュウの『もののあはれ』を数ページめくった時点で、もうとんでもない、これはとんでもない書だ、とゴーストが大声で叫ぶので、逆に、なあなあで済ませてしまっていた、記号論理学とヴィトゲンシュタインを履修しなくては。
ん? あれ? 『青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない』のテーゼ、「わたしね、人生って優しくなるためにあると思います」って、ひょっとして”Born to be wild”のを反転させた”Born to be mild"なのか?
『青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない』に関しては、建て付けやガジェットがどうにも古めかしくって、あんまり感心しなかった。そういうノスタルジーを目標としていると言われるとぐうの音も出ないけれども。
科学部のあの人、いいですよね(言動は物理屋さんだけどね)。いわゆるウィスパーヴォイスなんだけど、語尾まではっきり発音するので、強い意志があるんだなって感じて、フレッシュだった。これがマジックなのか、そのように設計されたのかは分からない。後者じゃないかな、何となく。
秘密なんだけど記号論理学に関しては『ろんりの練習帳』という本に挑んでは屈するを繰り返しており、わたしに厳密性を求める方がどうかしているんじゃないかと思われていたところ、不意に「うん、それはそう」と明晰が訪れた。言語化するまでもう少しかかりそうだけれど。そもそも数学書というのはそのようにして格闘されるものらしい。最初に言ってよね。
そしてアウトプットしようにもおそらくあのへんてこりんなギリシア文字をnoteに上手く入出力出来ないんじゃないかと考えている。必然的に自然言語で厳密をやろうという馬鹿げた試みになる気がするけど、まあ、ヴィトゲンシュタインが面白かったら、やってみよう。
ヴィトゲンシュタインの書よりもヴィトゲンシュタイン自身が面白いというところは多分にあって。彼の弟が戦場で右腕を失い、左手だけで弾ける曲を作ってくれないかとラヴェルに打診したところ、ラヴェルの手は常人のそれより巨大だった、かつ超絶技巧だったそうで、楽譜を受け取ったところで「こんなもん弾けるか!」と突き返されたそうだ。いい話。そしてその曲は大変に美しいのだ。
『ろんりの練習帳』という書自体はおっさん臭い、薄ら寒いどころかツンドラの大地、シベリアの収容所もかくやと言わんばかりの駄洒落が横溢していて、それはそれで険しい顔になるのだけど(考えてみたらこれも奇書じゃねえか)、おっさん臭い駄洒落が今も昔もおっさん臭い駄洒落として認識されるのが、少し不思議な気もする。
おっさん臭い駄洒落は普遍なのか。