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【医療小説】血路 [3/4]【在宅ECMO】
第三部:決断の時 - 家族、医療者、そして予期せぬ事態
清志の部屋は、低く押し殺したような話し声と、人工呼吸器の作動音に包まれていた。悠が病院の別の患者の対応で不在の間、清志の家族はそれぞれの思いを抱えながら、彼の顔を見つめていた。
その場には、清志の妻・明美、母親・佳代、そして中学生の息子・翔がいた。翔は父の手を握りながら、時折、不安げに明美の方を見上げる。その視線の奥には、何かを決意したような影がちらついていた。しかし、誰もそれに気づくことはなかった。
清志の部屋には、安定した機械音が響いていた。しかし、ふとした瞬間に、そのリズムがわずかに変化したように感じられた。清志の表情は穏やかで、痛みを訴えることもなく、ただ静かに目を閉じていた。
異変が起きたのは、世の中すべての罪さえ飲み込んでしまいそうな暗闇に染まったある深夜だった。悠が病院経由で呼び出しを受け、眠気眼のなか自宅から車を走らせ、清志のもとへ急いで向かった。
病院からの連絡では、「ECMOの状態が急に悪化し、SpO2(動脈血酸素飽和度)が測定不能になった」とのことだった。悠はハンドルを握る手に力を込め、焦燥感に駆られながら車を走らせた。
家に着くと、室内は騒然としていた。清志の顔は青白く、モニターにはアラームが点滅していた。悠はすぐに機器の状態を確認し、血流量が異常に低下していることに一目で気づいた。ECMOの人工肺が目詰まりを起こし、血液の循環が十分に行われていないことが分かった。
「なんで……」悠は小さくつぶやいた。
ECMOは新型のモデルを使用し抗血栓性と長期耐久性が飛躍的に向上しているはずだった。6時間といわれた限界は忘れ去られた古であり、コロナを経て普及した2週間以上使用できる従来モデルはもう懐かしい。今では1ヶ月は使用できる。在宅ECMOが実施され始めたのは、デバイスの進化が大きい。
「これはどういうことですか!」
家族の間には動揺と怒りが渦巻いていた。
「ECMOの不具合が原因じゃないのか?」
誰かがそう言うと、他の家族も次々に声を上げ始めた。
「医療機器が原因でこんなことになるなんて……」
明美が悠の腕を掴み、詰め寄った。その目は涙で赤く腫れ上がり、激しい怒りが滲んでいた。
「さっきまで…ちゃんとしていたのに、どうしてこんなことになったんですか!」
悠は動揺しつつも、冷静に状況を把握しようと努めた。だが、家族の怒りは収まらない。
「先生がここにいなかったから、こんなことになったんじゃないの?」
翔が震える声で言った。その声には、単なる責めだけではなく、別の感情が入り混じっているようだった。だが、今の悠にはそれを読み解く余裕はなかった。
悠は一旦、深く息を吸い込み、家族の非難の声を背に、ECMOのディスプレイに目を向けた。冷静に、ECMOの操作履歴を確認すると、流量設定の変更を示す操作履歴が残っていることに気付いた。
『……誰かが操作した?』
悠の脳裏に疑念がよぎった。しかし、今この場でそれを口に出すことはできなかった。家族の誰かが操作したのか、それとも何かのミスなのか。だが、家族はECMOの操作履歴が残ることを知らないはずだ。
彼は黙って画面を見つめた。誰かが意図的に流量を変更した可能性がある。しかし、今この場でその事実を伝えるべきなのか、悠の心は揺れた。
清志を取り囲む家族の悲痛な表情を前にしながら、悠はただ静かにECMOのログを閉じた。そして、翔のうつむいた横顔が、一瞬だけ鋭い影を落としたことに、誰も気づいていなかった。
『第四部:命の境界線 - 真実と選択』につづく
最後まで読んでいただきありがとうございます。
※この物語はフィクションです。2025年2月現在、在宅医療の現場でECMOは実施されていません。
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