2つ目の自分(13)リハビリの世界と、大学の世界と、わたしの世界
2つ目の自分(12)>生活がリハビリになるから、から続きます。
三つ目の病院を退院して復学後、そして大学を自主的に留年して三年目、新たな友人と一緒に大学四年生となった。これは当時、希望を感じて一気に視界が開けた、あの日見た青空(12)話から、少し前の話かな。
環境デザイン学科だったわたし。復学後残りの3年間は、地域デザインや造園、建築のことは耳にかすった程度で、事故で失った機能やアイデンティティを受け入れるために這いつくばって過ごした。
新たに通い始めた高次脳機能障害のリハビリの病院では、私のように人生の半ばで、事故や病気で脳に障害が残った方と出会った。大学と下宿先を往復の毎日では、自分のような生き辛さを抱える方と出会うことはなかったため、そこに通うことで、随分居心地の良さを感じた。客観的に自分の事を知ることができたかな。
この後遺症は、外見からはわからず、見えない障害と言われる。以前いた一般の病院でリハビリをしても、私の言葉をわかってもらえないことが悔しくて、トラウマが広がるばかり。申し訳ないが、年齢の若いセラピストさんが担当になると、どこにでもある適当な返答に失望してしまう。そしてまたわたしの「言葉の伝わらなさ」に、あなたに何がわかるんだと、絶望した。
軽度の失語症もあったのだと思う。だが、全く言葉が出てこない訳でもなかった。会話の中で、相槌や当たり障りのない適当な答えはできていたのだ。能力を診断する時には、問題に適当に答えられてもいた。だけどわたしの、本当に伝えたい、その奥にある気持ちは言葉になって出てこない。いつも、何かが挟まったような、掴み所のない、ざわついた感情に飲み込まれたまま。誰にも伝えられないまま。もやついた感情が残ったまま、それからもまた数年の時を過ごした。
通っていたリハビリ病院の当事者さん達は、社会復帰までの訓練をする方が多かった。事故以前のわたしは、障害が残り病院に通うなんて、可哀想で、不幸そうな勝手なイメージ。実態を知りもせず、身体が自分と同じような形でないと、どこか痛かったり、不便なのかとか。自分と同じように日々を過ごせないと、どこか頭がおかしいのかとか、少し奇妙な人のように思ったり。自分と同じように一般的な身体機能ではないと、どうやって関わればいいのかわからず、遠目に一瞬様子を伺うだけ。まるで違う世界にいる人のようだった。今こうして振り返ると、なんと一方的で、勝手な想像でしかない。
実際にリハビリ病院で見た当事者さん達は、全くイメージと違った。かれらが「今の自分の状態を知って」、「自分のできる方法」で、「自分の時間を過ごす」。思うようにいくことばかりじゃないけど、今を受け入れて、楽しく、いや楽しくなくたって、「ただ命を生きる」。その姿が、私には、とてもかっこよく映った。
そういえばその病院のセラピストさんは、二十代半ばの魅力的な女性。とても丁寧に当事者一人一人と関わる姿には安心を覚えたし、そこで心地よく過ごせる時間は、当然でもあったのかな。
平日は、大学へ通う。そこはアートの大学だったからか、皆が二十歳前後の時間を、自由に、華やいで過ごしているように見えた。社会の隅で賢明に生きてる人のことなんか、誰も知らないように。どうしてこんなに世界が違うのか、そのギャップの激しさに、戸惑う。そこに居場所がない自分に、戸惑う。自分だって同級生と過ごしているけれど、だけど自分を伝えきれず、テンポの早いみなの動きについていけない寂しさ。無情でしかいられない時が膨らみ、また自尊心をなくす日々だった。
どうしてこんなにギャップがあるのか。障害があっても、互いに認め合い、同じ時を過ごすことはできないの?
またその時も帰りは一人学校の裏道を通り、一面に広がる空をぽかんと眺める。不条理な世界を、ただ無情でぼんやりと過ごす。ただ身体の奥底では、メラメラと燃える小さくて激しい炎。いつか見返してやると、誰にぶつければいいかも分からない、言葉にならない情動を潜めてもいた。
大学四年生の最後の卒業制作では、もう弾けんばかりに膨らみあがったその一心で、誰もが心地よく、互いに過ごせる複合施設を立案する。
その話は次回に続こう。
これは先日の空。宇宙から、覗かれてた。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました☺︎
二十歳意識不明、高次脳機能障害。
赤ちゃんから成長し直し。大学を卒業して、デンマーク留学、日本巡回写真展、アートセラピスト、6年間の遠距離恋愛の後渡米、国際結婚、100/8000人でサンフランシスコ一等地アパートご褒美の当選
泥臭くクリエイティブに生きるストーリー、続きます。
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