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クラブハウスで俳句鑑賞 【毎日0時の一日一句】、その後(2)


 一日一句、365夜目のルームが無事終了。
 6月13日、「今日は一日一句をやらなくてもいいんだ」、という不思議な気分で一日を過ごしている。
 お、この句は次に紹介したいな。あ、もう終わったのか……と。

 365句を選句するにあたって。
 この句は絶対みなさんに紹介したい、早くちょうどいい季節にならないかなあ……などと、何か月も前から楽しみにしていた句もたくさんあった。

音楽を降らしめよ夥(おびただ)しき蝶に  藤田湘子
野遊びのふたりは雨の裔ならむ   河原枇杷男


 何が起きてもこの日はこの句! と意気込んで選び、当日を待ち構えていた句もたくさんある。その日にぴったりの一句を親しくなったみなさんと鑑賞し合えることは、毎日定時開催ルームの醍醐味だった。
 たとえば虚子の句は、1月1日0時、「明けましておめでとうございます」の声とともにルームをスタートできた、記念すべき一夜だった。

 小鳥来て午後の紅茶のほしきころ 富安風生(11月1日紅茶の日)
 去年今年貫く棒の如きもの 高浜虚子
 白梅や天没地没虚空没  永田耕衣(1月17日)


 一方で句集や俳誌を繰りつつ見つけ、「今日はこの句にしよう!」と出会ったその日に紹介してしまう一句もあれば、長いこと心の底に沈んでいたものの、季節を感じることでふっと思い出し、「今日はこの句しかない」といきなり俎上に乗せることになるのも楽しかった。
 大橋桜玻子は俳句の勉強会に出席した友人から教えてもらった句で、存在を知ったその夜に紹介してしまうほど気に入った句だ。

 土を拂ひ枯菊を置く火の上に 大橋桜玻子
 六月を奇麗な風の吹くことよ 正岡子規


 大雪の日や満月の夜、桜が降りしきる中を一日歩いた日。たっぷり季節を浴びた身体と頭で、その日一日つぶやいていた俳句の話をする、聞いてもらえる、次の日には誰かの心の片隅にその句が宿る、という経験は、なかなかないだろう。どうしても紹介したかった一句に合わせて、季節外れの虹を待ちわびたこともあった。

 月光にいのち死にゆくひとと寝る 橋本多佳子
 あはれこの瓦礫の都冬の虹  富澤赤黄男
 君を待たしたよ桜ちる中をあるく  河東碧梧桐

 

 俳句にも詩歌にも、それほど興味はない。でも季語で季節感を味わいたい、季節の言葉の知識を得たい、と、「一日一句」のルームを訪れる方も多い。季語という便利に使うこともできる知識をとっかかりにして、まずはルームの雰囲気に、そして俳句鑑賞に慣れてもらう。頃合いを見計らって、「こんなのも俳句なんですよ」と、紹介したのは、無季俳句はもちろん、多行などの実験的な現代俳句、さらには川柳。「季語がなければ俳句じゃない」という常識から逃れて、どんな作品でも鑑賞を楽しめる下地作りとなっただろうか。

 空に舟が髪にその櫂のしずくが  今泉康弘 
 船焼き捨てし/船長は//泳ぐかな    高柳重信
 一〇〇挺のヴァイオリンには負けられぬ 定金冬二


 印象深かったのは、俳句の世界でもそれほどメジャーではない京極杞陽の作品を取り上げた時、多くの仲間が意外なほど気に入り、杞陽研究会や杞陽なりきり句会などが別途催されたことだ。
 また、もっと読まれるべき俳人であるにもかかわらず、現代俳壇で顧みられることが少ない作家、大屋達治などの作品を紹介できたのもうれしいことだった。

  やつてみせくれしスケートジャンプかな 京極杞陽
  波のうへに花浮き花や遠ロシヤ  大屋達治


 とにかく毎日毎日、「今日はどの句を紹介しよう」「そろそろあの句を紹介できる。うれしいな」と、日々俳句を選ぶ楽しみ、共有する楽しみが一年間続く。毎日0時にルームを待っていてくれて、作品と思いを共有してくれる人が少なからずいる。そんな幸せな時間を送らせてもらえた。
 もちろん、選んだ作品によっては非常に消耗する日もあった。
 たとえば現代俳句でも最も難解と目されている俳句。俳句史において非常に重要かつ、長く論争の的となっている句。また、性的だったり、内容が際どかったり、人によっては拒否反応を起こしそうな句。そんな作品の魅力をどう伝えるか――? 「難物」相手の時は、何を語るべきか一日中一句のことを考え続けることも多かった。そして上手く伝わったと胸をなでおろす夜もあれば、改めて伝えることの難しさに苦悶する夜もある。

不可逆性虚血性銀河ニ帰ラナム  夏石番矢  
鶏頭の十四五本もありぬべし  正岡子規
月の出や口をつかいし愛のあと  江里昭彦
ビル、がく、ずれて、ゆくな、ん、てきれ、いき、れ  なかはられいこ


 一方で軽やかな俳句、長年愛唱した俳句ならば、それほど気を重くすることなく、語りたいことを楽しく語れる。
 しかし365句。どの句も自信をもって多くの方に知ってもらいたい佳句ぞろいなのだが、作品によって参加者に気に入ってもらえるものもあれば、ほとんど共感を得られない時間もある。この差がなぜ生まれるかは、最後まで謎が解けなかった。「この句はみんな、好きだろうな」と思う句があまり受け入れられず、「今日の句はちょっと難しいかも?」とおそるおそる紹介した句が、案外理解されたりする。
 そして毎日毎日感じ続けたのは、こんなに短い、些細な言葉の塊なのに、受けとる人の感じ方はほんとうにほんとうに様々だということ。一日一句に集う人々は、俳句作品や作者にきちんと向き合ってくれる方が多く、参加者の鑑賞に気づかされることも毎日で、新しい発見が日々あることがほんとうに嬉しかった。
 筆者が長い年月愛唱し、描いてきた景とはまったく違う鑑賞に次々に接するとき、なるほど、と膝を打つ。あるいは、やはり仲間たちの鑑賞を聞いても、私自身の解釈はゆずれない、と思うこともある。
 もちろん時には、俳句の描くテーマに乗じて自身の知識ばかりを披露したがる人、経験や感性を誇るばかりの人も訪れ、「俳句の話しろやボケ!」と怒鳴りたくなることも多々あったし(がまんした)、作品よりも自分を上に置いて俳句に接する方も珍しくはなかった。それはそれで、その個人のスタンスであり、創作物はそうやって消費されることもある(むしろ多い)のだと再認識もすることとなった。

 しかし繰り返しになるが、365句。どれをとっても自信をもって人々に伝えたい、多くの人の胸に刻まれいてほしい作品ばかりだった。365句すべてが、愛してやまない一句だったからこそ、365日365回、クオリティの差はあったかもしれないが、テンションは一度も落とすことなく乗りきることができた。聴いてくださった、一緒に話をしてくださったみなさんがいたおかげであり、そしてやはり紹介させてもらった俳句の力かな、としみじみ思う。
 365句とその作者にも、深く感謝を捧げたい。

 *「一日一句」365句の一覧はこちら  

 *クラブハウス「俳句フリートーク 俳筋力の会」はこちら。一日一句終了後も俳句の鑑賞ルームを企画しています。

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