母
ここで話したいのは、「私の」母についてではない。
でも「私の」母について考えながら思ったことである。
私の母も、あなたのお母様も含めた、血縁とかどうこうは置いといた「母」という生き物の話。
母を多角的にみる
宗教的母
母への圧倒的信仰心。父へは抱きえない信仰心。
それは何から来るものなのか。
胎児が産まれて初めて口にする母乳の味が、それを決めてしまうのか。ならば粉ミルクで育った子はどうなのか。
一緒にいる時間の長さと信仰心は比例するのか。
全て違う。
どんな家庭環境で育てられようが、全ての子があたたかさ、丸みとでも言おうか、そんなものに惹きつけられる。
ネグレクトや、決別した母であっても、その丸みは確かにある。
神聖なのに、触れる、けど形がない、見えない
母という生き物の宗教的(精神的)側面にはその「丸み」が関係しているのだと思う。
ここでいう丸みは、女性らしさと共通するものがもちろんある。江戸時代の春画に描かれる女性は、私が想像する丸みをふんだんに帯びているといってもよい。
丸みは余裕があって初めて成立するのかもしれない。
家事や仕事で忙しない母に、余裕などあるわけないだろう。それは間違いない。
しかし、母としてのすとんした構え、女を捨てて...なんていっても捨てきれない女の部分、そんなところが余裕となって、人間としての母の角を削っていくのだろう。
生物的母
ひとつないし複数の命を孕むことのできる体、それは今のところ女性しか持ちえない。
無痛分娩ということも可能になった現代ではあるが、出産の瞬間までの苦痛こそが、命をこの世に送り出すことに対する母の使命なのかもしれない。いや、そうだ。
実際、無痛分娩は母が痛みを感じないようにできている技術なだけであり、痛みを発生させんとするエネルギーそのものは無痛分娩で消し去ることはできない。胎児だって必死だ。
五感で感じる母
歳を重ねてから、体臭が母に似てきたなと感じることが増えた。それは自分が自分の母から生まれたということを実感させる。
子は親に似る、ましてペットさえも主人に似ると言う。しかし、前者は遺伝子を介し、後者はそうではない。また、遺伝子的な繋がりがない親子というのも存在する。
私が言いたい五感で感じる母というのは、遺伝子のことなどまるで関係ないのだ。ペットが主人に似ることに、少し近いのかもしれない。
体臭の話に戻ると、これはもちろん遺伝が関係し得る部分はあると思う。しかし、一緒にいた環境、考え方、躾、食事、つまりは遺伝するものを全て伝え切った後に追加される要素、これらも体臭を大きく左右すると私は考える。
母になれるということ、ならないことを考える
宗教的母
宗教をつくるためには、教典が必要だ。
物理的な教典がなくとも、軸となる考えが必要だ。
信徒に教えるべき何かがなければならない。
さらに私は、教えるなら、とことん教えたい。
開祖もきっと同じように思ったのだろう。自分が考えたことをもとに、人を幸せにしたいだとか、そんなきっかけで。
私は自分の体から生まれたいのちにそのような責任が持てる気がしない。わたし教は誰かに宣教する必要はない。しないほうがいい。これからの社会を生き抜く術は入っていない。
やっぱりどうにもこうにも、母にはなれなさそうだ。
自分に丸くあれないのに、子の前で丸くいられるわけがない。さっき述べた余裕の話がこれだ。
私には、まだ削られる勇気もない。
丸みを帯びるには早すぎる(これは年齢を重ねればいいわけではないと思っている)。
生物的母
私は女なので、生物的にも、社会システム上、母になれる。
しかし、いのちをこの世に誕生させるその苦痛に、ヒトとして、真剣に対峙できない。もはや精神的な話なのだが。
苦痛に耐えられる体力がないとか、そういう話ではない。
新しいいのちが生まれるという神聖な瞬間に、心から向き合えない。気がする。
私が今仮に、望まない妊娠をしたとしたら、自死を選択する。名前もない細胞レベルの子を孕んで死ぬことが、子と自分と向き合う最善の方法だと思うからだ。
五感で感じる母
私を五感で感じてくれる人間がいるということ。
それが自分の体内から出てきたいのちであるということ。
考えるだけでも壮大で、美しいと同時に、畏れ多い。
触れてはいけない宝石(普通の石かもしれない)、毒キノコ、食虫植物...そんな風に、あぶない。
こうやって萎縮していては、教典もままならない。角さえ出ない、私はぐにゃぐにゃのままだ。
母
母はものすごい。
私には、なれない。
この場を借りてリスペクトしたい...といえばそういうわけでもない。
誰しも一番身近な存在であるのに、私は一生それにはなれない。
母に母性などない。母はもれなく母なのだから。
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