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いま、あらためて教養の意味を考えない ◆ 水曜日の湯葉141

いま「教養」の意味を考えるのがブームだ。より詳細に言うと、山月記のセリフのような学校系ミームを「教養」と呼ぶ人たちに対して「おまえのそれは教養じゃない」というマウント合戦をするのがネットの一部で流行っているらしい。

この流行は初デート・サイゼリヤ論争と同じで周期的に起きるし、僕も以前「教養とは何か」の自分なりの定式化を試みて、以下のような定理を考えたことがある。

教養の不可能定理
ある知識を「教養である」と証明することはできない。

その証明
教養は「その知識がある者・ない者」を社会的に区別することが目的だが、「教養と証明された知識」があれば即座に大衆に普及してしまい、階層を区別する指標として機能しないため。

うむ。これは結構気に入っているので、今回あらためて「教養とは何か」とか考えるのはやめよう。この手の言葉はだいたい意味が曖昧だし、議論といっても結局は趣味の問題にしかならない。そのかわり、「教養」という言葉についての、ちょっとした思い出話をしたい。


「教養」の曖昧さとそのレトリック

昔々のその昔、具体的には僕が大学生の頃、僕が所属していたある組織(サークル的なもの)が「学園祭でフランクフルトを売ろう」という話になった。これ自体は例年の行事だが、そこで店名を「まっがーれ↓フランクフルト」という名前にしよう、という話で一部が盛り上がり、別の一部が「いやお前ら、そういうのはマジでやめろよ」というかなり本気めの拒否感を示していた。

後で知ったが、これは当時流行っていた『涼宮ハルヒの憂鬱』の主題歌をもじったもので、つまりオタクの悪ノリである。そういうかんじの連中が(集めたわけでもないのに)集まる組織だった。ただ当時の僕はTVアニメというとドラえもんくらいしか知らず、彼らの話を「なんか僕の知らん話で盛り上がってるな」「皆が面白いならいいんじゃないの」くらいに思って見ていた。

私見だがああいう「オタクの悪ノリ」への拒否感は主にオタクどうしの共感性羞恥で、本当に知らない側からすると意外とどうでもいい。よくオタクは「自分たちは周りに気持ち悪がられてる」というが、そもそも「他人は自分になんらかの定まった感情を持っている」という前提がけっこうな自意識過剰ではと思う。

そんな議論を終えて飯を食べたあと、場にあからさまな温度差があったのを感じ取ってか、友人のひとりが僕に対してこう言った。

「君はアニメに興味ないみたいだけど、ああいうのは教養として見ておくといいよ、夏目漱石を読むのと同じように」

このときの「教養」の使い方がずいぶん印象的だった。

「教養」の意味を議論するとき、その派閥は大きく2つある。「あるコミュニティに入るための知識」と、「自分を立派な存在に見せるための装飾」である。そして友人の「アニメを見ろ」というのは明らかに前者で、「夏目漱石」は後者の意味で使われている。だからまったく「同じように」ではないのだが、どちらも「教養」という言葉が使われるために、それを無理やり結びつけている。

つまり彼は、「教養」という言葉の意味が曖昧なのをいいことに、アニメを布教するレトリックとして、2つの意味を混ぜてきたのだ。

もちろん、これは意図的なものではなく「教養として」と言った直後に「教養といえば文学、文学といえば夏目漱石」とマジカルバナナ的に類推した可能性のほうが高いが、このテクニカルな言葉遣いがあまりに面白く、今になっても深い印象を残している。

その後 Netflix などのサブスクが普及し、TVを持たない僕も日常的にアニメが見られるようになったため、今では1クールに1〜2本ほど追っている。ハルヒはいまだに見たことがない。


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