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バスは走る

 かれこれ二時間、夜の暗闇の中をバスが走っている。

 空港で荷物がなかった。ロスト・バゲージという奴である。手続きをしなければならない。空港職員を呼ぶと、ヴェネツィア空港でやれという。
 私はヴェネツィア空港に来たはずだが?
「ここはどこの空港ですか?」
 友人Nが訊いた。
 指さされた看板にはAEROPORTOの文字と、何かが書かれていたが、空港職員に急かされた、
「早くしないと最後のバスが出るよ!」
 振り返って目を凝らした先の看板には、VENEZIAの文字があった。
 ヴェネツィアの空港の名前は正式にはなんと言ったか。確かヴェネツィアなんちゃら空港だ。そのイタリア語であろう。
 気がつけば同じ飛行機に乗っていた乗客たちは皆居なくなっていた。ぽつねんと深夜十一時過ぎの空港に残された私たちを、バスの運転手が出迎えた。
「ペル・ヴェネツィア」
 運転手の言葉はヴェネツィア行きの意味だ。
 最後のバスと言うだけあって、私たちの他には数人の乗客しかいない。
 乗り込むとすぐにバスが出発した。
「待って、トイレ」
 友人が慌てて言ったが、空港から市内は道のりで八キロの距離のはずだ。深夜十一時過ぎ、渋滞しているとも思えない。すぐに着くのではないだろうか。
 バスは軽快に走り始めた。
 運転手は上機嫌にスピードを上げた。
 運転席の後ろに席に乗り込んだ私たちにはスピードメーターがはっきりと見えた。時速百キロを超えている。
 外はいつしか霧が立ちこめていた。夜の霧は何も見えない黒でしかない。車窓の景色は何もなく、フロントガラスの前はヘッドライトに照らされてその部分だけがもやもやと霧らしいものが流れていた。

 それが二時間前。
 
「まだかな」
 Nが泣きそうな声で呟く。
 時速百キロで八キロの道のりを行けば六分ほどで着くはずだった。何故バスは二時間も走り続けているのか。窓の外の景色は何も変わらない。時刻は深夜の一時、私たちの他の乗客は座席で眠っている。
 濃霧の中を時速百キロで走っているのが現実離れしていた。二時間、距離にして二百キロ。ヴェネツィア空港から二百キロ離れた場所はどこだ? 私たちは本当にヴェネツィアに向かっているのか?
 もしかしたら乗ってきた飛行機は墜落していて、私は死んでいるのではないか。そんな妄想すら浮かんでくる。見えない窓の外は三途の川で、あの世とこの世の狭間をバスで走り続けているのかもしれない。そう言えばローマ神話でも三途の川はあって渡し守に銅貨を渡すらしい。私はローマの銅貨も六文銭も持ち合わせていない。そのせいであの世にたどり着けないのか。
 だがそう考えるとNは何故トイレに行きたがっているのだ?
 生理現象ほど死に遠いことはない。
 Nは身体を震わせ時折座席を叩いている。

 バスが停車したのは二時間を過ぎて十分ほどの頃合いだった。
 着いたのは空港で、霧ごしに薄く照らされた看板にはヴェネツィアなんちゃら空港とあった。
 何故ふりだしに戻った?
 隣でNが悶絶していた。

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