何者でもない私がエンジニアを目指す訳
wirohaさんのnoteを読んだ多くの方が「1人の女性がエンジニアになるまで」について書かれています。私はまだエンジニアになっていない何者でもない立場で書いてみようと思いました。
幼少期〜中学生
私は奈良県の山で囲まれた自然いっぱいの田舎で育ちました。私の父と母は歳の差が18歳も離れた歳の差カップルで父は私が物心ついた時にはすでにおじいちゃんになっていました。田舎なので買い物に行くのに車がないと不便でしたが私の親は車の運転が出来なかったので出かける時はバスか単車。単車といってもスーパーカブです。
私には5つ離れたお兄ちゃんがいるのですが小学校の頃はよくイジメられていた記憶があります。私もお兄ちゃんの妹ということで一緒にからかわれたりイジメられたりしました。だから早くお兄ちゃんが早く卒業しないかなと思っていました。でも家では兄弟仲は良かったです。お兄ちゃんは優しかったので。一緒にごっこ遊びをしたり、テレビを見て笑ったりしたのを覚えています。
家は貧乏でした。時々給食費が払えないとか、近くのお店で借金したりとか、年末にはよく借金しているお店の方が家に取りに来て支払いをしている母親の姿を見ていました。近所の方にお金を借りたりしているのも見てきました。借金が払えなくなって家が差し押さえになりかけた時もあります。そんな子供時代を過ごしてきたので私は大人になったらすぐに働こうと考えていました。
高校時代
高校からは三重県の学校へバスで通い始めます。バス通学なので部活もしていませんでした。入学した時はそこそこの成績だったと思いますが数学や英語が苦手で勉強が嫌いになりどんどん成績は落ちていきました。ただ国語だけは成績が良かったので、その時の担任の先生に「短大にも行けるよ」と面談の時に言ってもらえたのですが私はそもそも行く気も無かったし、高校を卒業したら就職という選択肢しか持っていなかったので短大への道は考えもしませんでした。今考えてみれば奨学金制度もあったでしょうし、もう少し自分の将来についてきちんと向き合えば良かったと後悔しています。
初めての就職
高校を卒業して初めて就職したのはおもちゃ屋さんでした。おもちゃ屋さんで学んだことはクリスマスの時に山ほどプレゼントを包んだのでプレゼント包装には自信があります。正直、働く=お金としか考えていない時代。仕事の意味など何も考えていない頃。楽しければそれで良かった。おもちゃ屋さんでは20歳までの2年間働かせて頂きました。
20代〜30代
20歳から30歳は恋愛・仕事・遊びと色々迷いながらも次の人生への階段を昇る準備段階だったような気がします。20歳で大手スーパーのパート社員として働き始めました。とても刺激の多い日々でしたね。夜中まで遊んで午前3時帰宅は当たり前の毎日。寝ないで仕事とか平気でしたね。仕事に向き合うっていうよりも遊ぶことの方が大事!毎日楽しければいいじゃない!という気持ちで過ごしていました。しかし周りの仲の良い友人達がスーパーを辞めていき、私も仕事と本気で向き合っていかなくてはと思い始めるのでした。
ホテルマン時代
仕事と本気で向き合い始めた20代半ばに出会ったのはホテル業でした。これは私にとって天職だと思いました。特に結婚式でのスタッフの仕事が一番楽しかった。なのでウェディングプランナーを目指してヒューマンアカデミーーで1年間勉強もしました。しかし、働いていたホテルでは和食レストランのスタッフとしてしか雇用してもらえず(要望すれば良かったのかもしれませんが、そのころはそこまで自信がなかったです)最終的には和食レストランの女将さん的な立場で任されるようにまでなりました。しかし、結婚を機にホテル業も退職することにしました。
製薬会社に転職
転職を何回も繰り返してきた私ですが今の製薬会社に勤めて14年目に突入しました。サービス業ばかりしてきたので製薬会社の工場勤務はすぐに辞めてしまうだろうなと思っていましたが、今までのサービス業と違って土日祝は休みで年3回ある長期休暇、福利厚生はきっちり!といった条件が良すぎて今も働き続けています。結婚をして子供も出来、休みたい時には有休も自由に取れるのでワーママが働くには良い職場です。そして会社の経営理念が素晴らしい。「7つの宣誓」というのがあるのですが、その中でもっとも好きな宣誓の一つに、
「まず、人がいて輝いてこそ企業は生きる。主役は人、一人一人が自らの意志と力で自立し組織を動かしていきます。」
この宣誓が好きで今も続けていけるのかもしれません。
SEの方との出会い
2018年の春にあるPJに参加することにしました。会社をより良くしていく為のPJでした。そこでは私が体験したことのない今までの世界を変える素晴らしい方々との出会いがありました。会社を良くしていくための方法をどのように考え、行動を起こしていくのか。それがロジカルシンキングとの出会いです。物事を深く深く考える。考えることが嫌いだった私は思いつきだけで行動していたことに気づきます。「なぜ、そう思ったのか?なぜ。そう感じるのか?正解かどうかは自分が決める。そのためのロジカルシンキング」 それを教えてくれたのはSEとして働いているHさん。本当に親身になって相談にも乗っていただき力になってくれました。その方のススメもあり私はITパスポートと言う資格試験の勉強を始めたのでした。
コロナ禍の中で
資格試験の勉強は思ったより捗らず、何せITの知識がもともと乏しい私にとっては難しずぎる!!と言うことで受ける受ける詐欺ではありませんが、なかなか試験を受けにいくことができずに煮詰まっていた時にコロナがやってきました。外出自粛、学校の休校なども重なり家で過ごさなければいけなくなり、お先真っ暗やーとなっていた時にネットを見ていて気がついたのです。このwhithコロナ時代必ずデジタル時代がやってくる。その時に必要となる技術はプログラミングだなと。
前からプログラミングに興味はありましたが学校に通ったりするのは今の状況では厳しいし、何せ働きながら、子育てしながらは無理だと諦めていました。子供たちが大きくなって手を離れるくらいになってからでいいか。。そう思いながら過ごしてきました。
しかし!コロナ禍の中で巣ごもりしていると多くの情報を目にするようになり、今の時代ネットでも動画でも学べる!本もたくさん出ている!私でも出来るかもしれない!そんな根拠のない自信からプログラミングを独学で学んでいます。現在ではHTML&CSSの基本的なところまでは書けるようになってきました。
私は小さな頃からお金に非常に苦労してきて大人になりました。エンジニアになりたいと思ったのも稼げる仕事、これから食いっぱぐれのないための技術をと思ったのがきっかけでもあります。お金に苦労してきたからこそ今の泥臭い現状でも頑張れるスタミナがあるのだと感謝しています。
私の天職はサービス業です。人が好きです。喜んでもらえることが好きです。笑顔が好きです。どんな仕事でもお客様に喜んでもらえるサービスを届けることが大切と言うところは同じだと私は思っています。
エンジニアになって世の中を笑顔にしていく。テクノロジーの力で困っている人を助けれる人になる。明るく・元気に・真っ直ぐに。43歳になったおばちゃんでもエンジニアになれると言うことを証明できたら、子供たちの未来はきっともっと明るいものになると心から信じています。
エンジニアを目指すにあたって色々なアドバイスをいただいた周りの皆様に感謝いたします。
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