こんなに大変です☆借金返済への道 3
やばい、このままだと私、幸せな人になってしまう!
※アメブロで2014年に書いた「自分史」を加筆・再考し掲載しています
大変な借金を背負うはめになって
一時はどうなることかと思ったけれど、
50円玉二枚になるような状態からは脱せました
これからの生き方については相変わらず不安でした。
(もともとネガティブだしね)
目の前を
「0」いっぱいつけたものが見えてくるのだけど
数えられへん・・・・(涙)
ちょっとした数字恐怖症でした。
大げさかもやけど、あんな借金の数字みたらそうもなるか。
と今だから言えます。(笑)
主人が亡くなってからは
ほんとに苦手な「お金」のお話も含めて
いろいろなことに向き合いざるおえず
弁護士さんしかり、銀行さんしかり
いろんなところに出向きましたが
もうひとつ
実はずっと
「労働基準監督署」にも定期的に呼ばれておりました。
主人は職場で倒れて亡くなったんですよね。
亡くなった当時、旦那の死は労災適用になるはずだと
いろんなことを
私に知恵として入れてくれる人が数名おりました。
そして、その労災は
会社や国を相手にして
「争って」とりにいかないと!と
周りから言われることに
ほとほと参っちゃってました。
そんなパワーどこからくるん。って感じです。
でも
気付いたら
書類があったんです。
えと
なんでやねんやろ。
どこからきたんやろ。
空から降ってきたのかな?
(アホか絶対違うわ)
そして
気づけば
ある頃から
東京から来られている旦那の会社の方と会うことと
労働基準監督署の方と会うことが
毎月のようにダイアリーに加わっていました。
あ~
全然思い出せません。
主人が亡くなったころの
書類を書くことに対する辛さったらなくって
「なんでこんなに書かないといかんねん」なんて
恨んでましたが
きっと、そういいながら届いた書類、書いたんですね、あたし。(笑)
「労働基準監督署」なるところに呼ばれるっていうのも
なかなかない経験ですよね。
暑さの中、寒い中。
次男と一緒に駅からの長い道を歩きました。
何度も足を運びました。
何度も何度も。
提出した書類から、
いろんなことを聞かれます。
主人の家庭での健康状態、
仕事に対してどのように話していたか、
なにか、疲れているように見えることはなかったか。
本当に様々なことを聞かれました。
でもね。
答えられないんです。
同じ部屋で眠ってなかったから。
そして家の中を逃げ回って、できるだけ会わないようにしてたから。
「苦しそうなときがあったか」
なんてわからない。
最後に帰ってきた日の時間。
何時に帰ってきていたか?って聞かれました。
全く記憶にありませんでした。
後で聞きましたが、帰宅した時間などはすべて主人と一緒に働いていたバイトの子が証言してくれたそうです。
でも本当はね。
亡くなる半年前から私は家に殆どいた状態。
忙しく働いていたころを思うと
主人は気持ちを
話してくれていたんです。
これからどうなるのか
今、仕事がどんな状況なのか。
どんなにタイヘンでも大好きな店舗の店長をしていたいと。
でも、亡くなった次の月からは
支社の「人事部」への異動が決まっていました。
「人事はしたくない」
「店にいたい」「やりがいあるのかな」
亡くなる前の主人は私にいっぱい言葉をのこしていました。
でもね。その頃。
私自身が
それを認めることが絶対に嫌だったのだと思います。
憎しみや怒りが大きすぎたのかな。
そういうことを思い出すことに蓋をしていたんだと思います。
「主人に浮気されて借金されたかわいそうな未亡人」で
周りから同情されているほうがずっとラクだったから。
今は話せるこんな思い出も
当時は本気で思い出せませんでした。
労働基準局の方はもちろん
本当に周囲の人は私をたくさん気遣ってくれて
私には厳しい言葉をかける人はいなくなっていました。
「お気の毒な」「かわいそうな」
という形容詞がいつもあると
私はいろんな意味で「ラクチン」な人になっていました。
そんなある日。
主人が亡くなる数ヶ月間の分の
「過剰労働時間とみなされた」分の賃金が
私に支払われました。
遡って支払われる過剰労働賃金は亡くなる三ヶ月前までって
決まってるんだそうで
主人のその間の過剰勤務時間は
300時間を越えていました。
…と、言われても。
それがどういうことなのか
わたしはわかっていなかったです。
それからしばらくして
定期的に東京本社から来てくださっていた会社の方から
支社に呼ばれました。
毎回東京から来られていたその方が
毎回私に会うためだけに大阪に来ていたということも
実はその日に知りました。
ずっと関西出張のついでだと思ってた。
大変やなあって。
わたし、本当は一番ノンキだったんでしょうか?
応接室で
たくさんの「えっらいさん」がおられるところに座り。
なにが行われるんですかね?
めーっちゃドキドキしました。
東京からいつもきてくれる社員さんが言いました。
「奥さまやご家族のお悲しみにしっかり向き合わないといけないと私たちは思ってきました」
(そ・・・そうなんだ。私はこんなに旦那に怒ってるのに・・・・)
「実は、会社のほうでも労働基準監督署に報告をし、様々な調査を受けてきたんです。」
(?)
「このたび、正式に労働死亡災害としての認定が正式におりました。」
(???)
「認定されるまでの間、経済的な面でも大変不安な日々を過ごされたと思います。」
「大黒柱を失うことになった奥様やご家族の気持ちを思うと、これで十分とはいえないとは思うのですが」
「労災認定」によって
なにがどうなるのか、まったくわかっていませんでした。
「これからお子様を育てていかれなければならない中
これで十分とは思っていませんが、精一杯努力させていただきました。」
なんだかいっぱい紙がでてきました。
またもやいっぱい「0」が並んでいます。
よくわからないけど、ハンコ押そう。
たくさんのえらいさんに頭を下げられながら
でっかいオフィスを出て駅まで歩き
環状線のベンチをみたとたん
腰の力が抜けました、
ヘナヘナ~って。
これは本当に
なにも変われていなかったころの私の
謎のミラクルです。
「労災年金」
雇用していた会社が全面的に「過剰労働」を認め、国に報告し、
労働災害であるということが認められたということ。
遺族年金だけではなく。
主人が生存していたらいただけるであろうお給料を予想して、年金として支払われていくということ。
そして
それだけではありませんでした。
数日後には
会社からの保険金が振り込まれ
さらに
亡くなってからの日々遡っての
労災年金が振り込まれました。
「0」いっぱいで。
もう50円玉ふたつになることはありません、きっと。
もう風俗の面接のサイトを見ながら考え込むこともありません、きっと。
大喜びの万々歳をしたらいいんです。
旦那が亡くなってからの日々、ずっと大変だったし。
風俗の面接までいったんだし。
お花なんかいらんし、食べ物もってきてよ!なくらい切羽詰った経験したんだし。
ところが
ある意味ほっとして喜んでいるのに。
手放しではまったく喜べない私がいました。
なぜかって
わたし
このままじゃ
かわいそうな人じゃあなくなるじゃない!!!
今ならわかるんですが
間違いなく本心はこうでした。
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