岩瀬忠震筆「躑躅崎」
幕末の外交官、岩瀬忠震が記した書です。
忠震は嘉永2年(1849)11月18日、甲府徽典館の学頭を命ぜられ、翌3年1月22日に甲府へ向けて旅立っている。翌4年2月28日に江戸に戻るまでの、およそ13か月間、忠震は甲府で過ごしている。冠防印に嘉永4年を意味する「嘉永辛亥」とある。
忠震は戦国時代に武田家の居館があった躑躅ケ崎を訪ね、詠んだものであろう。
設楽原にその源流を置く忠震が甲府を勤務地としたとき、故郷設楽原で決戦を行った武田家の居館である躑躅ケ崎を訪ねたいという気持ちをもったであろうか。忠震は長崎へ出張した際、大宰府など訪れるなど、忙しい時間の合間を縫っては、名所旧跡を訪ねては、多くの詩を遺していることは周知のことである。
躑躅の花とあるので、旧暦ならば2月から3月ごろなので、甲府に離れるときに立ち寄ったのであろう。天下に覇を唱えかけるほど隆盛を極めた武田氏。その繁栄が嘘のように、今はひっそりと躑躅の花が咲いているというような意味であろう。
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