『LGBTQ 聖書はそういっているのか?』の感想
この度、著者である藤本満師のご厚意により、日本語の校閲・校正のまねごとをさせて頂いた書籍が出版されました。
ペーパーバックが手元に届きましたので、改めて各章ごとの短い感想をまとめてみました。
序章
冒頭に論じられている「聖書」を「どのよう読むのか?」という問いかけこそが、本書全体の論旨でもあるため、そのことがまず丁寧に論じられています。
また、その中で「聖書は道徳のルールブックではない」こと、「釈義と解釈」を分けて考える「意義」、「ホモフォビアという黒幕」への言及、何よりも「聖書」は「福音の光の中で」読むべきであるという主張が、個人的には非常に重要であると感じました。
1章 LGBTQ―歴史的展開
性的指向の発見から同性婚の議論に至るまでの歴史的経緯が丁寧に取り上げられていることで、このテーマについての入門書としても相応しいものになっていると感じました。
その上で、社会学的視点と歴史的視点がとても良いバランスで盛り込まれており読み応えもありました。
また、「クィア・スタディーズ」への言及や「アメリカにおけるゲイ・レズビアン運動の歴史」に触れられる中で、「ハ-ヴェイ・ミルク事件」から「プライド・マーチ」への発展(p43-45)については涙をこらえきれませんでした。
2章 ソドム 創世記19章1~11節
本章も「古代オリエントの文脈」についての歴史学、社会学的な視点、知見がふんだんに盛り込まれており読み応えがありました。
特に後半の社会学的な視点による「ゼノフォビア」やフェミニズムの視点からの「家父長制」や「男尊女卑」「ミソジニー」への言及はLGBTQというテーマと深く関連しつつ、普遍的に重要且つ、特に保守的な福音派の教会の中では見落とされがちな視点だと思いますので、非常に重要な問題提起となっていると感じました。
3章 レビ記18章22節、20章13節
非常に緻密で説得力ある、しかも旧新約の連続性を踏まえた釈義を背景に、「異性愛主義」への言及、山口里子、南野浩則、栗林輝夫、ブルッゲマンらを引用して、キリスト教的人間観の本質と周縁に向けて特化して注がれる、解放をもたらす神の愛を全面に押し出された論調に深く共感しました。
4章 コリントの信徒への手紙6章9~11節
ここでも非常に高度、且つ膨大な資料に基づく緻密な釈義が貫徹されており、LGBTQというテーマに留まらず、聖書の釈義とは斯くあるべし、との感想とともに、その難易度の高さ、言い換えれば、求められる専門性の広さ、長さ、高さ、深さを覚えさせられました。
その上で、具体的内容として重要と思われるのは、やはり「マラコス」と「アルセノコイテース」という二つの言葉の意味の整理であったと思います。
5章 ローマ1章24~27節 釈義1
「取り替える」というパウロのレトリックと「自然」という語の釈義を3つの糸から解きほぐすという論の運びのクリアさに感動しました。
6 ローマ1章26~27節 釈義2
本章で展開された、「女神崇拝におけるセクシュアリティ」についての歴史的に詳細な記録や考察、及び、対象箇所のレトリックを黙示文学との比較から考察するというアプローチは、非常に新鮮であるとともに、とても腑に落ちるものでした。
7 ローマ1章24~27節 釈義と解釈
前半のAで改めてこれまでの議論を整理し、Bの「ガリレオの望遠鏡」、以降、中盤では、一気に議論を詰めて、ある意味では良識的に知性を用いるか、それとも短絡的な思考停止に陥るか、という緊張感のある二者択一を迫っているかのような印象を抱き、圧倒されました。その上で、本章における「釈義と解釈」の整理は、短いながらも、牧師やそれに類する訓練を受けている者にとっては納得深く、そうではない人々にとっては、改めて目が開かれるような、重要なポイントであったと思います。また、最後に「デール・マーティンの訴え」を引用しつつ語られた、聖書解釈のより大きな原則である「福音」そのものに注目することによってLGBTQ肯定派となり、その他、人権や社会正義に関わる問題について積極的に考え、また行動することこそが、福音派の本来あるべき姿であるというメッセージは非常に力強く、説得力のあるものだと感じました。
8章 独身-同性婚
本章のテーマこそ、本書の最重要テーマであり、ある意味では、これまでの議論はすべて、本章の結論に至るための準備であったのだと思います。その上で、このテーマは、現在のキリスト教会だけでなく現在の日本社会全体が直面している喫緊の課題であるからこそ、本書が今、この時に、出版され、問われる必要があったのだと改めて感じました。そして、その問いに誠実に答える読者が一人でも多く起こされることを心から願います。
9 LGBTQの尊厳
個人的には、前章への感想を踏まえて、本章は本書における補論的な位置づけなのではないか、言い換えれば、これは本書を閉じるにあたって、著者がどうしても書いておかなければならないこと、読者に伝えたいメッセージであったのではないかと感じました。その上で、そのメッセージに心から共感しました。特に「恥は存在に関わる」以降は、ある意味では本書のクライマックスではないか、また「共感力と差別」からは、著者自身のLGBTQの人々に対する深い共感と憐れみ、非肯定派の人々に対する深い落胆と義憤が溢れ出しているように、個人的には感じました。また、私個人にとっても、ここまでで最も共感深い章でもあり、特に栗林やナウエンの引用文やエチオピアの宦官の件に共感しました。
結び
私自身「福音派のど真ん中」とまでは言えないまでも、その同じ土壌に蒔かれ、成長した一人のキリスト者として、著者が抱く「議論の違和感」に深く共感しました。
最後に、本書の「謝辞」の末尾には「走るべき道のりを走り終える」という第二テモテ4章7節の言葉が引用されていますが、本書の著者とその出版に関わったすべての人々、また読者の前には、なお「走るべき道のり」が主によって備えられていることを思います。願わくは、本書によって結び付けられた一人ひとりが、主にある連帯を持って、なお「走るべき道のり」を「終わり」まで、共に走り続けることができますように。