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野球ノート



草内グラウンド
対男山アルファー戦

5回裏1アウトランナー満塁。
1対1の同点。
1ストライク2ボール。



打席に立って、サインを見るが、
なんとなく分かる。



ここぞという時,監督はいつも自分には
スクイズではなく、打てのサインを出す。



その後、母の方をみる。
いつもの構えをするんやで。
そう言っている。


ピッチャーはセットポジションから
ランナーの方を一度見て
ボールをこっちに投げてくる。
外角高めに来た球を打ち返すと
ボールはセカンドの頭上を越えた。

そのまま点々とボールは
外野に転がっていく。
チームメイトが3人ホームに帰ってくる。



三塁ベースの上でガッツポーズをする。
ベンチから大きな歓声が上がった。

















小学3年生の頃、
父に怒られながら教えられた
「サッカー」ではなく、
父が知らなかった
「野球」に徐々に魅力を感じていく。

父が知らなかったからこそ、好き勝手させてくれる野球の方が楽しかったんだろう。


毎週日曜の公園では
サッカーの「練習」ではなく、
野球という「遊び」にはまってしまった。





2009年3月7日
友人と共に行った体験入部で
即決で野球チームに入る。


その日から野球漬けの毎日が
はじまった。


毎日7キロ走り、
眠たい目を擦りながら学校に行く前に
公園に行って父のノックを受ける。
帰ってきてからは
狂うように、何かに取り憑かれたように
バットを振る。





周りと比べて自分は
体はとても小さく、足も遅かった。

父は「努力できることも才能」
と教えてくれた。
だから、誰よりも走り、
誰よりもボールを投げる練習をした。







努力が少しずつ実りチームの主力になり、
三振王にも関わらず、
満塁打率10割、勝利打点は1位という
意味のわからない数字を残していた。




満塁の時、大事な準決勝の時、
天敵のホワイトイーグルスとの対決の時、
完全試合目前の最後の打席、
なぜか打つことができた。






あの朝練が、あのランニングが
あったからこそ、神様が打たしてくれたのだろうと今になって思う。


しかし、
























中学生になった寸前の
12歳の自分は努力を履き違えてしまった。



様々な外部野球のところから
来て欲しいと言われ、
選抜選手に選ばれ、

鼻が高く調子に乗っていたのかもしれない。


自分には選択肢があったにも関わらず、
周りに流され、楽そうな中学の野球部に入る。


甲子園に行くのが夢だった。
行けなくてもいい。
ただ目指したかった。
大好きな野球と本気で向き合いたかった。


その為には必ず、野球部ではなく、
厳しい環境の外部の野球チームに
入らなければいけなかった。




父は何度も自分を説得しに来てくれた。
お前それでいいのか?
あれだけ頑張ってたのに
そんな簡単に決めていいのか?




ずっと練習に
付き合ってくれた
父に

会社に行く前に
手にサポーターを巻きながらノックを
打ってくれた
父に

自分はこう言う。





「うるせぇな。勝手にさせろよ。」








この言葉が、人生最大の後悔に
変わっていったのは
もう少し後の話。


厳しい環境に身を置かないと、
ダメになることをきっとこの時
父は知っていたのだ。





野球部で一年から
レギュラー争いに入れていたのは
最初の方だけだった。


努力のおかげにも関わらず
なぜか、自分は野球ができると
履き違えてしまったのだ。




最後はキャプテンになるものの、
チームを引っ張れる実力は無くなっていた。


その辺にいるようなただの野球部の
並の選手になっていた。




走らなくなった自分は、
素振りをしなくなった自分は、

中学最後の試合が終わった瞬間に
気づいてしまった。










その時から
野球が見れなくなって、
野球が怖くなってしまった。










この後悔は今も変わらず、
残り続けている。










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