アジアンハイウェイ#1
佐賀市内での打ち合わせを済ませ、佐賀大和インターから長崎自動車道に乗る。順調に鳥栖を越え基山付近を通過していると、車のナビが「福岡県に入りました」と無機質な、なのにどこか艶っぽい女性の声で告げた。そのまま太宰府方面から都市高速に入り、箱崎料金所を過ぎる。汐井浜橋から玄界灘を眺めていた目線を前に戻すと右側に緑色した高圧ガスコンビナートが、逆側に「AH1/ASIAN HIGHWAY」と書かれた標識の文字が一瞬目尻に映り、後退していった。
「アジアンハイウェイ」とは、アジア32ヵ国を横断する高速道路網のこと。1959年、アジア諸国を幹線道路網によって有機的に結ぶことで国際間の経済や文化交流・友好親善を図り、アジア諸国全体の平和的発展を促進させることを目的に、国連アジア極東経済委員(ECAFE)総会で採択された。1号線から8号線まで大きく8つの幹線ルートがあり、その全長は14.1万㎞におよぶ。計画の構想から約半世紀を経た2003年には、日本も参加を表明。福岡から東京に至る高速道路の一部がアジアンハイウェイ1号線に組み込まれ、トルコとブルガリアの国境から東京まで約2万㎞がつながれた。
福岡市には「アジア」を冠した催しや施設が多い。アジアマンス(現アジアンパーティー)に福岡アジア文化賞、アジアフォーカス・福岡国際映画祭、アジア太平洋都市サミット、福岡アジア美術館などなど。さらにはアジア太平洋こども会議・イン福岡や福岡アジア都市研究所といったものまで、枚挙にいとまがない。これら「福岡✕アジア」というコンセプトのさきがけとなったのが、福岡市の市制施行100周年を記念し1989年に開かれた「よかトピア」だった。
よかトピアは正式名称を「アジア太平洋博覧会」という。1984年の市長選で4選に臨んだ進藤一馬市長が開催を公約に掲げ実現に導いたもので、アジアと地理的に近く、交流が盛んな福岡ならではの試みとして構想された。1989年3月17日には満を持して開幕。37の国や地域、国内1056企業・団体が参加し、171日間に渡る開催期間中の総来場者数は約823万人を数えた。閉幕後、よかトピアの成功に気を良くした福岡市やその外郭団体によって創設されたのが、前述した一連のアジア関連イベント・施設・団体というわけだ。
会場設営のために埋め立てられた百道浜から地行浜にかけて玄界灘を臨む博多湾一帯は「シーサイドももち」となり、地中海風を装ったであろう建物や街道、唐突に現れるピラミッドなど、バブル期の日本人が頭に描いた〝外国の風景〞が今も当時の名残をとどめる。
人工的な四角をした倉庫地帯に背を向けて、天神北出口から都市高速を下りる。天神の混雑を避けて昭和通りへ右折。親不孝通りの手前で点滅を始めた信号に気づきとっさにブレーキを踏む。ルームミラーにぶら下がるインド土産の黄色い猿が大きく揺れた。
現在のビル街からは想像するのが難しいが、昭和通りの海側、那の津通りあたりは明治ごろまで玄界灘に面した松林の広がる砂浜だった。「那の津」の名称も、当時の博多港がそう呼ばれていたことに由来する。約420年前の福岡城築城時には、これら海に面した地帯が町割りされ、呉服町、大工町、東職人町など、多くの職人が住むエリアを形成していた。
大手門のあたりで左に曲がり、舞鶴公園と大濠公園の間を通る公園線に入る。舞鶴公園は江戸時代、福岡城の本丸のあった場所だが、それよりさらにさかのぼった古代、ここには「鴻臚館(こうろかん)」という名の外交のための拠点があった。その前身は飛鳥時代の「筑紫館(つくしのむろつみ)」という施設で、平安時代になって中国風の鴻臚館という名称に変わる。中国大陸や朝鮮半島からの使節を迎える迎賓館兼宿泊所のほか、海外へ派遣される国使や留学僧らのための宿泊所や、外国商人らの検問・交易を行う場所として、7世紀後半から11世紀までの約400年間用いられていた。「アジアの玄関口」というキャッチコピーが定着して久しい福岡だが、なんのことはない。1000年以上も前からこの地はすでにアジアに向けて開かれていたのだ。
高速を下りたころにはまだあった日はだいぶ沈み、坂道を立ち姿勢で漕ぎ上がる自転車のペダルが時折車のヘッドライトに照らされる。
坂を天守台近くまで上がりきり、護国神社へと下る途中、「城内住宅」と呼ばれる空き地に住宅が点在する地帯を横切る。ここは戦前、陸軍練兵場であったのが、戦後に外地からの引揚者や戦災被害者のための一時集団住宅地となっていたため、そのままずるずると個人の私有地になってしまい今に至るらしい。
日暮れ後の刹那、まばらに散った家々の玄関先に咲く赤い花が、明滅する無機質な街灯に照らされる奥、昨年の3月にリニューアルオープンした福岡市立美術館がある。大濠公園の一角という好立地も手伝い、連日多くの市民や観光客が来場していた。しかし、美術館の南口付近に設置された銅像の存在に気づいた人は多くないに違いない。和服姿で鎮座するのは、先述のよかトピア構想を掲げた進藤一馬だ。この人物はまた、玄洋社最後の社長としても知られる。
「玄洋社」という名前を初めて目にしたのはいつだったろう。日本における右翼運動の源流とされる政治結社であり、その精神的支柱として頭山満というカリスマがいた――。大まかな知識はあったが、より輪郭がはっきりとしてきたのは東京から福岡へ居を移し、まるで何も知らなかったこの街のルーツ、土地に織りなされてきた文脈の〝背骨〞に当たる部分について意識を向けるようになってからだ。
例えば福岡でも随一の進学校である修猷館高校。旧制中学時代から多くの政治家・財界人を輩出してきたことで知られる同校は、向陽社(のちの玄洋社)が設立した向陽義塾(のちの藤雲館)が前身だった。また、福岡市で高い購読率を誇る「西日本新聞」は、玄洋社の機関紙だった「福陵新報(のちの九州日報)」と「福岡日日新聞」が合同したものだ。意外なところでは、福岡におけるインドカレー文化とのつながりもある。城南区にある中村学園大学には、同校の創立者・中村ハルが考案した「ハルさんカレー」のレシピが伝わるが、これは頭山満が1921年ごろ、インドの独立運動家で日本におけるインドカレーの祖としても知られるラス・ビハリ・ボースに中村を紹介したことから生まれた。
福岡について知るほど、面白いように玄洋社が姿を現した。そもそも玄洋社が誕生したのは1880年前後の福岡。現代においては右翼のシンボル的存在として語られることが多い玄洋社だが、もともとは日本における初期の自由民権運動の中から生まれた、「右翼」の一言で済ませない複雑なアイデンティティを有した組織だった。根幹にあったのは「アジア主義」――アジアをヨーロッパと対立するものととらえ、欧米列強のアジア侵出に対抗しようというイデオロギーだ。その思想に基づき、植民地支配や冊封体制からの独立・脱却を目指すアジア各国の運動家に対する支援を行い、それを支える数多の政治家や活動家を生み出した。進藤一馬がよかトピアを企図したとき、果たして彼の脳裏に玄洋社から受け継がれてきたアジア主義的な野望が映し出されていたのか。その真偽を知るすべはないが、1946年に解散するまでの約70年の間、彼らの残した足跡は間違いなくこの地の最も深い部分に根ざしている。
アジアンハイウェイによかトピア、鴻臚館と玄洋社。一見関連性のないこれらの要素はしかし、「アジア」というキーワードを介し、確かに結合している。日本にアジアンハイウェイが通って変わったのは、すでにあった道路に「AH1」の標識が掲げられただけのことかもしれない。ただ、この街がたどってきた歴史や有史より続けられてきた交流、何よりも人々が玄界灘から大陸へ向けていたまなざしのことを思うと、「アジアンハイウェイ」と名付けられた道路が、韓国・釜山からのフェリーに介しこの地に至っていることに、宿命にも似た必然を感じるのだ。
公園線を抜けて護国神社に突き当たったところ、六本松方面へぐるりと回る。別府橋通り沿いにある菊池公園の桜の満開の下、昨夜の雨の水たまりに浮かぶ花びらが見えた気がした。
※参考文献:天命に安んず出版委員会『天命に安んず 進藤一馬・その人とあゆみ』天命に安んず出版委員会(1984)/石瀧豊美『増補版 玄洋社発掘 もうひとつの自由民権』西日本新聞社(1997)/読売新聞西部本社編『大アジア 燃ゆるまなざし 頭山満と玄洋社』海鳥社(2001)/井川聡、小林寛『人ありて――頭山満と玄洋社』海鳥社(2003)/中島岳志『アジア主義――西郷隆盛から石原莞爾へ』潮出版社(2017)
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