空腹なのは、胸いっぱいだから。
ここからの文章は
星野源さんの楽曲「光の跡」、及び
こちらのnoteを読んでいただいた後に、読んで頂けると幸いです。
┈┈┈┈┈以下本文┈┈┈┈┈
「お腹が空いていない時は、胸がいっぱいだから、食べ物が喉を通らないんだって。」
先日、その日1日食欲がないという友人がこう言った。
こうして文章に起こしてきちんと読んでみるとよくわからない気もするが、聞いた時妙に納得してしまった。
彼女の場合はあまりいい話で胸いっぱいになっていたわけではないが、確かに、何かに大いに感動している時に空腹を自覚したことはない気がする。そして、胸はいっぱいだ。
無為に対しても、有為に対しても、そのような胸いっぱいになる時はだいたい唐突に訪れる。
帰り道上を見上げたら綺麗な月があったとか、雨上がりの道とか。友達と楽しく会話していても、ふとした瞬間あぁ、この感じいいな、と急に思い不意に泣きたくなる事だってある。
最近はどうも絶妙に忙しく自分が大学三年生だという事実を実感する。
楽しく学生生活を送る一方、確証のない未来についての決断を迫られていて、そのアンバランスさに胸が詰まる。
入学したのなんて最近な気がするのに、気づけは3年も経っていて、特にこの一年なんて気がつけば1週間があっという間に過ぎ去っていく。
20歳前後は自分の体感時間と実際の時の流れのスピード感が同じくらい(子供は1日が長く、大人は1日が短く感じるというアレである)と聞いたことがあるが、このままでは気づいたら、下手すると瞬きしている間に死を迎えるような気がしてならない。
そんな心の準備は全くといっていいほどできていない。
たぶん忙しいと思いつつぼんやりと毎日過ごしているせいでこんな感覚になっているのかもしれない、と思う。
毎日を噛み締めて生きていればもう少し無駄を削ぎ落とした、内容の濃い1日を過ごせるような気がする。
それがいいのかはわからないが。
ただ、ぼんやりと過ごしていても、1日を噛み締めて生きていても、こころが動く出来事は必ず目の前に現れる。
全員が平等に訪れる、そう遠くない"終わり"に向けて、ぼんやりと過ごす生活の中で行われる取捨選択が「胸いっぱい」を生み出している。
いつか無くなってしまう自分。
でも「終わり」というものに向き合えてなかったとしても、無意識のうちにそれに向かう準備を進めているのかもしれない。
日常というフィルターを通して、尊い出来事が胸をいっぱいにする毎日。
この胸の渇きが終わりへの恐怖心かもしれないし、ぼんやりとでも毎日を生きる理由かもしれない。
ふと外をみると、大雪だ。おまけに飛ばされそうなほどの風も吹いている。
あぁ、無為の踊りに付き合わされている。
ただ、雪を横目に友人たちと過ごすこの時間の贅沢さと、景色の美しさを不意に噛み締める。
無論、お腹は空いていない。