対話なのか、対立なのか、協働なのか
新型コロナウイルス感染拡大に関しての対応などについての、各人の意見や行動について意見が多く見られる。
そして自分と違う意見に真正面からぶつかるシーンがあると、感情的なコメントで返されたりしているのをSNS上で見たりすることがある。
温和な印象のある人でさえ、「わかっていない!」、「エビデンスがない!」、「他所では!」、「テレビでは!」など、たぶん厳しい口調が想像できるようなテキストで書き込んでいたりする。
読んでしまった時に胸がギュッと苦しくなる
なんで、こうなるのかなぁと素人ながら考えてみた。
個人的に、ビジネスの現場の感覚で見てみる。
赤字の事業や会社を黒字化させる課題を持たされた時、そもそも問題はなにか?という赤字の原因を特定する過程で、今までの取組み、もしくは現時点での取組みを変更せざる得ないような場合がある。そのような場合、一歩間違えると今まで関わってきた方々から煙たがられて、役割を果たせないことになってしまう場合がある。
そんな時、共通の敵がいると進めやすい。またそれは、他社・他者であるとよりスムーズだったりする。組織内部に敵を設定するのはよろしくない。
新規事業などでは、共通の敵の設定もしにくいが、一寸先は闇だからこそ、過去の判断をひっくり返したり、また戻したりなど、決断・判断する際のスタンスや価値観を共有することで、これまたプロジェクト進行のハードルを下げることができる。
という、とても浅い視点からココ最近の目に見える対立なのか、対話なのかよくわからないギクシャク感を考えてみる。
昨年の緊急事態宣言時は、まだまだ敵(ウイルス)の正体がよくわならない中で、みんなの「共通の敵はウイルスだけ」だった。そして、先が見えないからこそ、現時点では「接触を減らす」という判断・決断する際のスタンスが明確になっていた。その結果、全体とは言わないまでも協働の形をとることができていなのではないだろうか。
しかし、今回の場合は、みんなメディアなどを通じてウイルスに関する情報を1年間学び続けて、そして経済的な実態も含めて、どんどん敵を内部に作りはじめているように思える。この内部は、社会であり、SNSの中ででもある。違うスタンスの存在というだけでなく、自分と違えば敵であるという厳しいものだ。
「敵になどしていない、事実を言っているだけだ」
となりそうだが、それぞれの生活・気持ちはそれぞれの人にとっての事実なのだろう。その結果、言葉は鋭くなり、対話のつもりで対立になり、協働していたはずの関係が薄れていく。
こんな会社・組織のリーダーになったとしたら、私はどうするだろうか?
苦しいながらもビジョンを提示し、ビジョンという明るい未来だけではなく、そのために手段・方法はいつだって見直す・変更するということをビジョンと一緒に語り続けるのだと思う。
もしもビジョンが提示されない組織だったとしたら、自らビジョンを策定し、自らに提示するのだろう。コントロールできる点、できない点を明らかにして、悪いニュースも受け止めて、良いニュースを大切にして、一歩ずつ前に進むたびに、自らを褒め、なにより協働してくれる仲間に感謝し、言葉・態度で伝える。
これは組織のマネジメントという役割を担い学んできた事のような気がする。
冷静に冷静に冷静に
明るい未来へ目を向ける
自戒のつもりで、書いているけど
こんなときこそ、読書と筋トレな気がする。