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UMKで放送された『【みんなと選挙】 衆院選の投票率アップには? 識者2人に聞く』で考えた

写真は、田鹿さんのお話を聞き学ぶ、土屋と児玉アナウンサーの図。

よければこちらで放送を御覧ください


投票率と私たちの社会への向き合い方

そろそろ衆議院選挙。私の地元宮崎のUMK テレビ宮崎さんの夕方の情報/報道番組 #Link  での田鹿さんと対談を通じて、改めて投票について考えました。

前回の宮崎県内の投票率は53.66%。つまり、有権者の半数近くが投票に行っていない。

児玉アナウンサーからの「今回の投票率はどうなると思う?」という問いに対して、「上がる理由がない」という率直な話をしました。政治とお金の問題や様々な課題が山積する中で、単純に「投票に行きましょう」と呼びかけるだけでは足りない。むしろ、そんな呼びかけ自体が若い世代の興味を失わせているのかもしれません。

自己効力感と社会との関係性

私たちが社会の中で生きていく上で、自己効力感—自分の行動がどれだけの影響力を持つのか—という認識は確かに重要です。でも、それだけで全てを判断すべきなのでしょうか?

「投票しても自分の一票なんてそんなに価値はないのでは?」
という投票行動の自己効力感の考えにこだわり過ぎてもなと。

「私が問題だと思っていることはなにか?」
というアプローチ、問題意識の意思表明の手段としてでもよいと。

ある意味で、投票というのは私たちの社会への向き合い方を表現する一つの手段です。単なる数字ではなく、未来を生きていく子どもたちへのメッセージでもあります。

合理性を超えた民主主義

興味深いのは、よく言われる「若者は合理的に判断して投票に行かない」という議論。確かに、経済合理性で考えれば、一票の影響力は小さいかもしれません。でも、私たちの社会って、本当にそんな合理的なものだけで動いているのでしょうか?

私たちは非合理的な存在でもあります。感謝の気持ちや優しさ、次世代への思いやり—そういった要素も私たちの行動の源泉になっているはずです。

きれいゴトではなく、私達の特性からの考えてみる。めんどくさいのは避けたいと思っちゃう

放送の中で、マーケティングを専門としている視点から「認知的努力最小化」というのがあります。ちょっと難しい言葉ですが、要するに「人間の脳はできるだけ考えることを省きたがる」という性質のこと。

スーパーでお菓子を選ぶとき、あまりにも種類が多いと「もういいや」って諦めた経験、ありませんか?これ、実は投票行動にもそっくりそのまま当てはまるんです。

政策が複雑になればなるほど、私たちの脳は「う〜ん、考えるの疲れるな」ってなってしまう。で、どうするか。簡単な判断基準(ヒューリスティックって言います)に頼るか、もしくは「考えるの、また今度でいいや」って先送りにしちゃう。

これに輪をかけて厄介なのが「現状維持バイアス」。簡単に言うと、「変化を避けたがる」傾向です。

最近の研究では、政治的な判断でも、このバイアスがモロに効いてくることが分かってきました。「今の生活が別に悪くないし...」「変えても良くなる保証はないし...」—こんな風に考えちゃうと、たとえ現状に不満があっても、投票に行くっていう「変化」を選びにくくなっちゃうんですよね。

世代間の対話という視点

テレビ対談での興味深い提案の一つが、世代別選挙区という考え方でした。20代の代表は20代のために政策を考え、実行する—確かにそれは一つの方向性かもしれません。

ただ、私が気になるのは、それが世代間の分断を促進しないかということ。前に「シルバーデモクラシー」について書いたときも同じような違和感がありました。世代間の対立構造ではなく、対話を通じた相互理解のプロセスとして選挙を捉えられないでしょうか。

若者の投票率を「市場」として見てみると

前に宮崎県知事選の時に市場分析っぽく見てみた話を書きましたが、今回も少しそんな視点で。

先程のくだりでも書きましたけど、特に政治的な知識が少ない場合、複雑な政策判断を避けて、政党のイメージとか、候補者の見た目の印象とかで判断しちゃう傾向があると思うんですね。

これ、マーケティングの視点からすると「あ〜、そうそう!」って感じ。新商品を買うとき、詳細なスペック表を読む人より、パッケージの印象で選ぶ人の方が多いのと同じ。

メディアの報道についても

収録の時にお話をしたのですが、喋りすぎて本題とズレちゃったのですが、私としては、いろんなメディアや我々の世代が「若者は政治に興味がない」なんて言ってバッサリと斬りつけるのは簡単なんです。
こういうときこそ、人間の特性を理解した上で、我々の今までの反省を踏まえて、考えていく必要があるなと。

簡単に言えば、

  • 政策を「分かりやすく」伝える(でも、バカにしない)

  • 段階的に情報を提供する(一気に押し付けない)

  • 身近な課題から繋げていく(遠い話を近くに引き寄せる)

って感じで。

完璧な解なんてない

民主主義って、めんどくさい。これは正直な感想です。でも、その「めんどくさい」というプロセスこそが、私たちの社会をより良いものにしていく原動力なのかもしれません。

政治不信や無関心を「政治のせい」にして、社会や自分の未来から目を背けるのは、あまりにももったいない。完璧な解なんてないからこそ、それぞれの立場で考え、行動し、対話を重ねていく。

そんな当たり前のことを、改めて考えさせられた機会でした。

私たちにできることは、まず社会について語り合うこと。家庭で、職場で、友人との間で。その会話の中から、きっと次の一歩が見えてくるはずです。

子と親の意見が違う、これは恐れることではなく、しっかりと自律してきた一つの現象として家庭で捉えられると言いですよね。もちろん、議論をして相互に理解し合いながら、違う答えを認め合うという前提です。



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