それぞれの正義を尊重しながら、自分で創造・選択していくためには
最近の新型コロナ感染拡大防止に際しての○○警察の存在や、自粛か経済かといった対立の様子だけではなく、いろんなときにそれぞれの正義による対立が見えるし、なぜだか私自身も自分の正義が受け入れらなかったり、批判されたり、無視されたり、ないがしろにされたりするとイライラしたり、悲しくなったり、苦しくなったりすることがある。
(もちろん、尊重され、採用され、支援してもらう機会も大変多い)
会社のなかで働いていた時は、ある程度会社のビジョンや存在価値や優先順位などを対外的に発信し、その上でフィルターをかけて採用し、そして入社時・入社後・人事評価などを通じて、価値観・正義感のすり合わせや調整が行われていたように思う。
多様性というより、小さな共通善を持っているとも言える。一時期多く語られたMichael J.Sandelの"Justice"の「共通善」とでもいえばいいかもしれない。
「公正」はすべての人が共感・納得するものではないし、「唯一の答え」など存在しない。異なる価値観が共存しているという事実を受け止めてみる。
これは決して「我慢」を自らに強要しているわけではない。ただただ、受け止めてみる、受け入れてみる。相手の意見を受け入れる前に、「多様な価値観が存在する」ということを受け入れることに集中してみる。
会社にいた時は、その会社や資本主義的な価値観を共通善のように取り扱っていたし、個人と個人であれば相手の市場価値を高める事、相手の自己実現を支援することの土台として市場主義経済を受け入れることで共通する価値観としていた。
しかしながら、そうではない環境や置かれる立場が大きく違う場合に、どのように理解し合うべきなのだろうか。
放棄も一つの選択、委ねる事も一つの選択、新しい道を選択することも一つの選択、ぶつかり続けるのも一つの選択、進行を止めるのも一つの選択。
全員同じ答えを支持することはないということを現実として受け入れる。その中で、一つの組織・共同体として答えを選択する必要があることも受け入れる。
うーん、夏休みがもしも存在したら、ロールズの正義論でも読んでみるかー。