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激人探訪スピンオフ「"Dark Urban Boysgroup"って、結局何なの?」っていう話
どうも皆さん、YU-TOです。
本日は、"自分のバンド"と呼んで良いのかも分からないくらいに"存在自体が曖昧"なバンド、Dark Urban Boysgroupについての記事を書きたいと思います。
もう、自分自身でもそんな風に思ってしまうくらいだったら、もう皆さんからしたら「何か、ごちゃごちゃリリースするとか言ってるけど、結局あれ何なの?」っていうレベルの次元でしょう(笑)。
そんな状態で音源をリリースしたとしても、恐らく誰にも聴いてもらえないだろうし、これからも継続的に活動を続けていくつもりと思われてしまう可能生もあるでしょうから、ちょっとリリースに向けて定期的にDark Urban Boysgroupの記事を書いていこうかと考えています。
極端にアナウンスをしなさ過ぎる不親切バンドで、バンドの詳細を知る術が余りにも無さ過ぎるとも思うので(苦笑)、ここいらで本腰を入れてDark Urban Boysgroupについて余す事なく、その全てを綴ってみても良いのでは無いかと思い立ち、この記事を書いています。
何故、こんなにも曖昧な存在のバンドになってしまったのか?
どうして最初にして最後の作品をリリースするに至ったのか?
そして、自分YU-TOにとって、Dark Urban Boysgroupってどういう存在なのか?
そんな事を書いていきたいと思います。
最後まで書いてみて思った事は、この記事は2010年〜2021年までの自分の活動をDark Urban Boysgroupっていう存在と共に振り返る自分自身の激人探訪だなと。
正直、かなりぶっちゃけた事も沢山書いてます。
是非、最後までお付き合い頂けたら嬉しいです。
Dark Urban Boysgroup=菅野兄弟の音楽
ちょっとだけ、今になって後悔している事がある。
それは、Dark Urban Boysgroupを初めて公にした緊急事態宣言真っ只中の5月に出したこの記事で、Dark Urban Boysgroupを自分の"新バンド"として紹介してしまった事だ。
一応、この5月の記事の中でも触れてはいるが、実は"Dark Urban Boysgroupというバンドは9年前の2012年から存在していた。
だから、実際のところは"新バンド"でも何でも無いのだ。
もし、仮に2012年から継続的な活動をしていたら、もはや"ベテラン"と呼ばれても良い程の歳月が経ってしまっている。
何故こんなにも長い間、このバンドが宙ぶらりんになっていたのかは後ほど書くとして、まずは先にDark Urban Boysgroupを2012年に結成した経緯を先にお伝えしておきたいと思う。
割ともう公にしているし、ご存知の方もいらっしゃると思うが、自分にはTAKUMAという双子の兄がいる。
Dark Urban Boysgroupではギターとレコーディングなどのサウンドプロデュース面を担当。普段は"CULTONES"という名義で他アーティストの楽曲制作などの仕事をしていて、音楽専門学校MI JAPANのサウンドクリエイター科講師なども担当。
元を辿っていくと、Dark Urban Boysgroupというバンドは、自分YU-TOが発起人となり、双子の兄であるTAKUMAと「またヤバい作品を世に送り出したい」という思いの上で結成したバンドだった。
自分とTAKUMAが共に作り出す音楽は、絶対に他を圧倒させるクオリティになるという自負が未だに自分の中にはある。
高校時代に結成したInfected Malignityで海を越え、共に夢見た海外のステージに立てた経験は、自分にとって財産となった音楽経験の1つだ。
しかし、2010年にTAKUMAがレコーディングや制作の仕事に興味を持ち出してからは、2人の間でいわゆる"ケミストリー"と呼ばれるようなものを感じる事は一切無くなってしまった。
自分はその時、まだバンドをやる事に対しての情熱を失っていなかったが、この年の後半くらいから、もうTAKUMAは完全にバンドとは違う方向に自身の活動をシフトし始めていたような気がする。
そんな事を、何と無くではあるが感じていたある日。
当時やっていたバンド、QUIXOTIKのもう一人のギタリストであった近藤さんと共にチームを結成し、機材を買い揃えて自宅にレコーディング出来る環境を整え、"トラックメイカー"と呼ばれる仕事をやろうと思っていると、TAKUMAがメンバー全員にスタジオで伝えてきたのだ。
もうそこで自分は、「ああ、これはもう解散だな」と瞬時に感じたのを覚えてる。
何か、他のメンバーもそう感じたのか、あっさりとその場で解散が決まり、そのスタジオを最後にQUIXOTIKは活動をする事は無かった。
QUIXOTIKって、全く評価されなかったけど日本で1番最初に"Djent"って呼ばれるサウンドを演り始めてたバンドだったと思う。
まあ、そんな事、今更言ったってどうしようもないんだけど(苦笑)。
そんなこんなで、自分とTAKUMAは年が明けた2011年に別々の活動をする事に。
自分も、そのトラックメイカーのチームに加わる方向の話もあったんだけど、当時の自分の知識量じゃ、とてもじゃないけど何も貢献出来ず、その話は結局流れてしまった。
もう何かこの辺りから、TAKUMAと自分は全く違う価値観を持って生き始めているのが手に取るように分かり、事あるごとにケンカしてた気がする。
飲みに行った帰りに何かがキッカケで口論になり、川越街道で派手な殴り合いをして、近藤さんに止められた記憶が書いていて蘇ってきた(笑)。
そんな2011年の初頭、偶然の巡り合わせか何なのか、日米混合DEATH METALバンドのDEATH I AMから自分の元にオファーがあり、ドラマーとして加入する事に。
この写真、懐かし過ぎる(笑)。
DEATH I AMって、実は自分が人生で初めてTAKUMAの居ないメンバー編成でドラムを叩いたバンドで。
今まで自分がやってきたバンドって、言ってしまえば全ての事を自分とTAKUMAが手綱を引いてやってきたようなバンドだった。
だからDEATH I AMって、自分の価値観が大きく広げてくれたというか今までは知らなかったような事を沢山自分に教えてくれたようなバンドだったなと今になって思う。
でも、そこから約2年間の自分の音楽活動ってかなり流動的だったように感じる。まあ、今もなんだけど(苦笑)。
DEATH I AMを抜けて、サポートでバンドを掛け持ち、毎週末ツアーに繰り出すという、今の世の中では考えられないような日々を送っていて、忙しいけどお世辞にもクリエイティブとは言えない、楽しくはあるけども何か悶々としたものを感じる日々を、この時は送っていた覚えがある。
そしてちょうどその時期に、今思えば非常にくだらない事でTAKUMAとトラブルになり、一切口も聞かなければ会いもしない日々を過ごしてもいた。
結構、この頃はかなり精神的に参ってて、、。鬱病とまではいかないけども、ちょっとそれに近い状態だったなとも思う
そんな精神状態でステージに立ち、普段は絶対にしないようなミスをしたりして、「ステージに立つのが恐い」と感じ始めてしまい、「いよいよ何とかしないとマズイな」と、まずはTAKUMAとの関係を修復しようと努めた。
"双子"というのは、周りが思っている以上に複雑な関係性だ。
「仲良くしろよ! 笑」とか茶化される事も多いが、そんな簡単にはいかない事は世の双子達みんなが思っている事だろう。
正直、今でもTAKUMAと「仲良いの?」と聞かれたら、即答で「仲良く無いですよ」と答える。
これは本当だ。一緒に飲みにも行くし、音楽もやるが、仲は良くない。
他人の友達であれば「あいつと最近仲良くなったんだけど」とか言えるけど、TAKUMAにだけは死んでも言いたくないし、この後の人生で"仲が良い"なんて認める事はまず無いだろう。
それはきっと、TAKUMAも同じだ。
そういうものなんです、双子って。特に自分達はね。
話をバンドに戻して、、、
まあ、そんなこんなでTAKUMAとの仲も何とか修復され、徐々に精神状態も戻ってきた時に、ふと「また自分のバンドがやりたいな」という思いが出てきた。
当時、国内では"ラウド"と呼ばれるシーンが盛り上がりを見せており、その動きを横目で見つつ、「俺だったらここら辺のバンド達と、どういうサウンドで勝負出来るかな?」と自分が出したいサウンドの方向性を模索し始め、色々な方向性のサウンドを頭の中でイメージし始めていた。
その中で、自分が思い描いたサウンドは"立ち位置が曖昧な音楽"。
メタルなのかロックなのか?、"メタルみたいなポップス"なのか?、"ポップスみたいなメタル"なのか?、、、
それが分からないようなサウンドにしたいな思い立ち、「これは面白い音楽が出来るかもしれない」と、早速具体的なメンバー編成をどうするかを考えてみた。
まずその時、真っ先に声を掛けるのは当たり前にTAKUMA。
自分の思い描くサウンドを具現化出来るのは、基本的にTAKUMAしかいない。
何か、そういうのって自分の中に当たり前にあって、"自分の音楽"を追求して行くのであれば、TAKUMAと組むのは必須である事は無意識レベルでわかっている事なのだ。
あとは、今このタイミングで自分達兄弟が作り上げる音楽がどんなサウンドになるのかが知りたかった。
約2年間、自分は他の人達が作り出したエクストリームな音楽を吸収し、TAKUMAはポップな音楽を人からの依頼で作り出してそれを吸収し、互いに自分の音楽性を磨いてきて、その2つが合わさったサウンドを単純に自分が聴いてみたいといった思いがあり、それがDark Urban Boysgroupを結成した最大の要因であったように思う。
だから結局、Dark Urban Boysgroupって"菅野兄弟が作り出す音楽"というか、「もう1回真剣にTAKUMAと音楽を作ったらどんなサウンドになるのか?」っていうところから始まったバンドだった。
結成前に音楽性を決めていた訳でも全く無いし、活動方針だって決めてたわけじゃない。
もちろん、指標となるような音はいくつかあったけど、「何が飛び出てくるかな?」みたいな"出たとこ勝負"で結成したバンドではあったかな、確実に。
2012年結成の Dark Urban Boysgroupと現在のDark Urban Boysgroupは全くの別バンド
もう、これだけはハッキリと分かっていてもらいたいのだけど、2012年結成のDark Urban Boysgroupは、今のDark Urban Boysgroupとは全くベクトルの違うスタイルの音楽をやっていた。
当たり前だ。だってボーカルが違うんだから。
2012年に、自分がDark Urban Boysgroupのボーカリストとして抜擢したのは、Tatsuという人物だ。
歳は自分より3つ下(確か、、笑)で、長崎出身。プロの歌手を夢見て20歳で上京(確か、、笑)。クラブなどのショーケースで1人で歌って活動する、バンド経験ゼロの駆け出しのシンガーである。
TatsuとはTAKUMAを通じて知り合ったのだが、実際に知り合う前から「歌がスゲー上手い奴がいる」という話だけは聞いていた。
確か1度だけライブも観た事があったのだけれど、、正直あまり覚えていない(笑)。でも、「ああ、確かに上手いな」と思った記憶は若干ある。
でも、そんなTatsuを「ボーカルにしてみないか?」とTAKUMAに提案したのは自分だった。
これって、ちょっと今考えると何か不思議で。
TAKUMAはTatsuに楽曲提供をしたりしていたから、ある程度の関係性が築けてはいたんだけど、この時点で自分とTatsuは挨拶を交わした程度の仲。
ライブを観てもあまり"ピン"とは来なかったし、今思えば「とりあえず歌上手いんでしょ?」的な感覚で誘ってみた程度のノリだったかもしれない(笑)。
「まあスクリームとかは出来ないだろうけど、何とかなるっしょ!」みたいな(笑)。
Tatsuは、"チャンスがあれば何でも掴みたい"って思ってるタイプの人間だったから、自分の誘いを直ぐに快諾してくれた。
まあ、そんなこんなで楽曲制作を開始。
最初は自分がドラムを打ち込んでいって、そこにTAKUMAがギターを乗せていくという作り方で制作を進めていき、ある程度バックが固まってきた時点でTatsuにメロディを付けてみてもらった。
何かね、、、9年とか経った今でも覚えてるんだけど、、、
作品の良し悪しは別として、未だにこの時以上に興奮させられた制作って無かった。マジで。
ビビったもんね。「何なの、こいつ?」って。
本当に天性のメロディセンスというか、、ボーカリストのセオリーにおいてTatsuが作ってくるメロディがどの程度のものなのかは正直分からないんだけど、少なくとも自分には響きまくるメロディを、いとも簡単にアドリブでバンバン入れてきて、、、。
絶対に今までやった事の無いテンポ感の楽曲なんだけど、「こんな感じっすか〜?」ってしれっとやっちゃうものだから、結構呆気に取られてた(笑)。
表現力も、ハモりのセンスも、レンジの広さも申し分無く、、、特にハモりのセンスに関しては、本当に作ってて何度鳥肌がたったか分からないくらい。
そんな制作をしていく中で、「これは想像してた以上にヤバい音楽が出来るかもしれない」という思いが生まれてきた。
「これ、今まで聴いた事の無い音楽だ」っていう。少なくとも自分の中では。
でも、制作が進むにつれて、"もっと良くしたい"っていう欲も出て来た。
特に音質面は、「まだ改善が出来るんじゃないか?」という気持ちが自分は強く出て来て、ミックスを担当していたTAKUMAも、かなり路頭に迷ってたような状況だったなと、今考えると思う。
無理もない、この時まだTAKUMAは本格的にレコーディングなどの制作仕事を初めて2年目。完全なペーペーで、出来る事にも限界はある。
だから、自分は「ミックスは他の人に投げたい」という提案をした。
ただ、それが当時のTAKUMAのプライドをかなり傷付けたらしく、そこでまた大喧嘩が勃発。
これ、赤の他人からしたら「またかよー 笑」とか笑われてしまうくらいの事だと思うんだけど、それだけ真剣にやってたんだよ、全ての事を。
自分もTAKUMAも、「絶対にDark Urban Boysgroupイケる」って確信してたから。
何かもう、そこからはめちゃくちゃだった。
鬼のように喧嘩して、家族も巻き込んで、「マジでこいつ訴えようかな?」とか本気で考えてたから。
それで、さすがに自分の堪忍袋の尾が切れて、Dark Urban Boysgroupを停止せざるを得なくなった。
「もう、俺はしばらくこいつとは何も出来ねーわ。つか話したくも無いわ」って。
そこから、結構長い間"冷戦期間"が続いてた、、多分半年くらいは続いたんじゃ無いかな?。
それでそこから、自分はINFERNAL REVULSIONに参加する事になり、結構忙しく活動する日々を送っていて、、。
でもやっぱり、ずっと気掛かりだったのはTatsuの事だった。
自分とTAKUMAが大喧嘩してる時、何も出来ずに見てるしかなかったTatsuの気持ちを思うと何か情けないというか、今にして思うと「何してんだか」って感じるというか。
そんな事があり、2012年の終わりに結成され、2013年の初頭にDark Urban Boysgroupは"お蔵入り"となった。
ちなみに、この時ベースを誰が弾いてたのかは、まだ内緒(笑)。
残り続けた興奮とメロディ
そんな事がありつつも、自分とTAKUMAは、とある友人の取り持ちにより無事仲直り(いや前述の通り、別に今も仲は良く無い 笑)。
でも、やっぱりしばらくはDark Urban Boysgroupの楽曲を「もう1度聴き直してみよう」なんて思いもしなかった、、というか"忘れてた"というのが正直なところで。
2013年からの3年間は、過去を振り返る暇も無いくらいに忙しかったし、結構色々な事を必死で頑張ってたから、自分の中で「何かあったね、そんなバンド(笑)」くらいの存在にDark Urban Boysgroupはなっていた。
特に2015年に自分は1度、表立ったバンド活動から身を引き、介護士として地獄のような日々を過ごしていたから、もう頭の片隅にも残ってないくらい、その存在は消え失せていたようにも思う(苦笑)。
でも、、確か2015年の終わり頃だっただろうか?
何がきっかけだったのかは、本当に全く覚えてないんだけど、何故か2013年のDark Urban Boysgroupの音源を聴き返してみた事があって。
その時に、作った当時と全く同じ事を感じた。「これはヤバい」と。
むしろ、作った当時よりも「これ出さなくちゃ」って感じたかもしれない。
あれから3年経って、1度忘れてどうでも良くなって、もう今更蒸し返さなくても1mmの損も無い音楽にそう感じた事に、正直自分でも驚いた。
「今からでも、何とかならないかな?」ってずっと方法を模索して、確か大晦日の後楽園のHubで友人達と年越しをした時に、「Dark Urban Boysgroup、ちょっともう1回やるの考えてみない?」とTakumaに話していた記憶がある。
でもやっぱり、あの音ってTatsuのボーカルがないと無理で、、。
その当時は、まだ連絡先が残ってたから2016年の年明けに1度連絡してみたのだけど、、。
すごい怪訝そうな声色で電話に出て、"関わりたくない"っていうのが電話口からも伝わってくるような感じだった。
「もうバンドとかはやる気ないです」ってハッキリと言われて、「まあ無理もないか」と素直に自分はその言葉受け入れた。
もうそこで、TatsuのボーカルでDark Urban Boysgroupをやる道はキッパリと途絶えられてしまった。
第2期(?)Dark Urban Boysgroupの結成
2015年、前住した通り、自分は表舞台から姿を消し、しがない新米介護士として地獄のような日々を過ごしていた(これ、2回書いたけど結構本気で地獄だった 苦笑)。
そんな中、一応ドラムの練習だけは続けていた自分は、この時期ジャムセッションにちょこちょこ通うようになっていて、割と色々なところで"始めまして"のミュージシャン達と即興でセッションをする遊びを定期的にやっていた。
そんな遊びに「ちょっと付き合ってよ」と誘って、赤坂にあるセッションバーに一緒に行ったのが、第2期Dark Urban BoysgroupのボーカリストであるGaryuだった。
GaryuとはTAKUMAを通じて知り合い、2回だけではあるが、クラブで一緒にライブをした事もあって、それ以降ちょこちょこ一緒に飲みに行ったりだとか、ライブを観に行ったりだとかをする仲になっていた。
これ、いつ頃の写真だっけな、、(笑)。全く覚えてない(笑)。
それで、その赤坂のセッションバーには、TAKUMAと、第2期Dark Urban BoysgroupのベーシストとなるNaokiも一緒に行って、即興で色々な曲をジャムったんだけど、これが結構楽しくて。
お店のスタッフさんとか他のお客さんとかとも楽しくやれて、「ああ、こういう音楽の楽しみ方もあるんだな」と感じた事を何となくではあるけど覚えてる。
そこからだっけな?。頻繁にGaryuと「一緒に何かやりたいよね」って話をするようになったのは。
まあでも、特に具体的に話が進む訳でもなく、その年の年末くらいまでは何も行動はしなかったんだけど(笑)。
それで、確か2015年の年末に1回だけスタジオに入ったんだよね。
そこで色々とジャムって、何か形に出来そうなアイデアがあれば曲にしようって事で、4曲分くらいのネタはそこで出来て。
その中の1曲を形にしたのが、去年の5月に発表した"¥100,000"。
まさかその時は、こんなふざけた曲名が付けられるとは思ってもみなかったんだけど(笑)。
そして年が明けて2016年に、その中の1曲を形にして、サウンドクラウドにアップしてみようって話になったのだけど、まだこの時バンド名が無くて(笑)。
「どうしよう?」と思ってたら、TAKUMAが「 Dark Urban Boysgroupで良くね?」と、、(笑)。
まあ、自分もそこまでのこだわりは無かったし、もうあのメンツでバンドをやる事は一生無いって思ってたから、「まあ良いか」って感じで2012年の時と同じバンド名で、"フルスイング"って曲をサウンドクラウドにアップした。
当たり前だけど、それで何かが変わった訳では無かった。
別にめちゃくちゃ再生された訳じゃなかったし、「新しいバンド始めたんですね!」とは数人から言われたりもしたが、別に何か特別な出来事が起きた訳でも無く、、、というかね、ぶっちゃけこの曲、自分の周りからは不評だった(苦笑)。
誰からも「ヤバかった!」なんて事を言われた事も無かったし、「聴いたよ」とは言われても、あの曲を「カッコ良かった」とは誰にも言われなかったな。
ドラムは打ち込みだったし、何か曖昧なリリースだったから別にそれでも「まあ仕方ないか」ぐらいにしか思わなかったんですけどね。
それに、この時にはもう自分とTAKUMAは財部亮治さんのバックバンドや制作に携わってたりしてたから、自分のバンドをやるという事からはちょっと気持ちが遠ざかっていた。
当時は、その活動だけで満足してたっていうか。
でもね、、、、、、
これは書こうかどうか迷ったけど、もう正直に洗いざらい全部書いてしまおうと思います。
このサポートの仕事で、自分は悔しい思いを沢山した。
実はね、財部さんのオリジナル楽曲って、菅野兄弟、主にTAKUMAのセンスが滅茶苦茶出てた楽曲だったんだよ。
もちろん、全ての曲に携わってたわけじゃ無いから、一概には言えないんだけどね。
"作曲"は財部さんなんだけど、基本最初に渡されるのはアコギと歌のみのラフスケッチだけで、そこから「こういう曲にして下さい」っていうオファーがあって、そこに対して自分がビートを乗っけていき、TAKUMAが完成系まで持っていくっていう形での制作の進め方だった。
これって、クレジット上では"編曲"になってしまう。
編曲って、すごい曖昧な位置にいる役割で、下手をすればクレジットすらされない場合だってある。
実際、かなり"作曲的"部分にまでTAKUMAが着手していたり、TAKUMAのアイデアで全く別次元の仕上がりになった曲もあったんだけど、それが観てる、聴いてる人には全くもって伝わっていなかった。
もちろん楽曲が輝くのは財部さんの歌があってこそ何だけど、あんな爽やかな楽曲にブレイクダウンを違和感無くぶち込むのなんて、菅野兄弟の仕業に決まってるじゃん(笑)。
でも、当たり前だけどそんな事は聴いてる人には伝わってない。YouTubeでのコメント欄を見てもそれは明らかで。
そして、これは編集側の都合でのカットだっただろうから、財部さんは全く悪くないんだけど、、、
一度雑誌のインタビューで、明らかにTAKUMAが提示した曲のアイデアが完全に財部さんが独自に編み出したアイデアであるように書かれてる記事を発見して、「流石にこれは無いだろ」と自分が怒って、少し問題になった事もあった。
でも、その時は財部さん自身も当時のマネージャーさんも誠意ある対応をしてくれて、そこから先はクレジットの作曲部分にも名前を載せてくれて、大きな問題にはならなかったんだけどね。
だけどやっぱり、自分達のセンスがその曲に活かされた事なんて聴いてる、観てる人なんて知る由も必要も無い事で、当たり前だけど、楽曲のクレジットをちゃんとチェックする物好きな人なんて、一般リスナーの中ではほぼ0に近い。
もうこれって誰も悪くない、仕方が無い事で、サポートや制作側の人間の"宿命"のようなもの何だなと、凄い痛感してた。
だからその分、本当の意味で矢面に立って、スポットライトが当たった活動が出来ない自分達に悔しさというか、情けなさみたいな感情も心のどこかでは感じてはいたんだよね。
でも、財部さんバンドの時なんてMVに出演させてくれたり、ファンの皆さんも自分の事を認知してくれてたりしたから、10000倍マトモな現場だったとは思ってる。
そういう面での酷い話は世の中に沢山あるから。
だから、今考えるとこの時から、「本気で世の中に自分達のセンスを見せつけたかったら、サポートなんかじゃダメなんだ」って事に気付き始めていたんだと思う。
だから、Garyuとバンドをやる為に動いてみたりもしてたのかもしれない。
まあでも、そこから自分はUndead Corporationに参加することになったり、Devil Withinがあったり、Thousand Eyesに入ったりとかして、またどんどんDark Urban Boysgroupの存在が薄れていってしまうのだけれども(苦笑)。
コロナ禍でのバンドの公表。そして"最初で最後"の作品、「CREMATION」リリースの経緯
本当に去年は、全ての事が変わってしまった年だった。そして、今もそれは続いている。
そんな中、まだ記憶に新しいだろう自粛期間があり、その真っ只中にDark Urban Boysgroupの存在を公表。
もう、これに関してはノリというか、都の芸術支援プロジェクトに参加する為に楽曲とMVを用意して、それと同時にバンドの存在を公にしてみたのだけど、これを機に、そろそろ継続的な活動をしていこうとは、上の記事にも書いてある通り、この時点では割と真剣に考えてはいた。
表立った活動などはしていなくても、楽曲制作はチラホラしていたし、実はその時に出来た曲が先日しれっと公開された"HIKARI"だったりもする。
この曲、どうでした?。
めちゃくちゃ捉えどころの無い曲でしょ?(笑)。
だからね、この曲、本当はボツ曲だったんですよね、、(苦笑)。
でも、TAKUMAが"CULTONES"という名義でソロアルバムをリリースするという事で、そこでのコラボソングという形でリリースされるに至りました。
アーティスト写真も様々な現場でお世話になりまくっているライチさんに撮ってもらい、いよいよ本格的に動こうかと思っていたんだけど、、。
何か去年は、良い意味で自分がどこに向かってるのかが分からなくなった年だったと思う。
激人探訪で文章を書く事に目覚め、それが人からも評価されるようになったりして、音楽以外での自己表現を見つける事が出来た一方で、色々なアーティストの人から貴重な話を沢山聞けて、「こういう考え方もありだな」みたいな音楽活動のヒントも沢山得る事が出来た。
その色々な事をひっくるめて、自分にとってベストな音楽との関わり方と、「自分の音楽を表現していくのってどういうやり方が良いのだろう?」と考える日々が続き、様々な事を勉強する毎日が続いていて、それは今でも継続中。
それで、少し前に1つの結論が出て。
それは、もう自分は"バンド"というスタイルだけでは、自分のやりたい音楽活動を体現する事は出来ないという事。
もちろんドラムを辞める訳では無いし、Thousand Eyesは続けるつもり。
しかし、"従来のやり方でのバンド活動"をもう自分でやるつもりは無いし、正直、もうそれが通用する世の中では無いとも思っている。
ドラムサポートの仕事や、レコーディングの仕事も基本的には一切受け付けない(※案件にもよります)。
ただ、音楽には今まで以上に関わるし、今まで以上に自分自身を露出していくつもりではある。
でもそれは、ドラマーとしてだけでは無く、もっと幅広い役割として。
今、その為の準備を着々と進めているのだけど、本当に色々な可能性が見えてきていて、とても楽しい。
でも、その次のフェーズの活動に移る為には、先ずは絶対的にDark Urban Boysgroupを悔いのない形で終わらせなければならない。
もちろん、しれっとバンドを潰して、とっとと次の活動に行く事は十二分に可能な事だ。
むしろ、その方が効率は良いのかもしれない。
だけど、どうしても、Dark Urban Boysgroupに対しては、自分はそれをする事が出来なかった。
人が作ったバンドであったのなら、ある程度の責任さえ果たせば「合わないから辞める」で良いと思う。
バンド=会社で、それは転職と同じ。ちょっと音楽業界とかその周辺って、そこに対してのバッシングが厳し過ぎるんじゃないかとは日頃から感じてる。
「あいつ突然辞めた」とか
「腹括って音楽やってない」とか
「いや、そんな事言うお前より100倍考えてるし、辞めてる側はめちゃくちゃ腹括ってるから」と、そう言う事が自分にも他人にも起きる度に思う。
でも、Dark Urban Boysgroupは自分が作ったバンド。
だから、このバンドだけは自分自身も、メンバーも、悔いのない形で終わらせたい。
このバンドと、このメンバーでライブもやりたかったけど、ノコノコしてたらこんな時代になってしまって、その実現は恐らく難しいだろう。
だったら、2012年〜2013年に作って、発表せずに終わったあの楽曲達を、今のDark Urban Boysgroupの楽曲と合わせて「最初で最後の作品」として世に送り出してから、このバンドを終わらせようと、そう決めた。
1つの作品でボーカリストも音楽性もまるで違う作品になるだろうが、そんな事はどうだって良い。
そんな、ある意味では前代未聞な"1つの作品"を作り上げる事が、自分が出来るDark Urban Boysgroupっていうバンドに対する最大限の敬意のつもり。
だからこれって、いわば"供養"なんですよ。
アルバムタイトルは「CREMATION」。意味は"火葬"。
本当は「BURY」にしようと思ったんだけど、Garyuが「日本は火葬じゃね? 笑」って言った事から、このタイトルに決定。
Dark Urban Boysgroupって自分にとって何だったのか?って聞かれたらね、「"後悔"です」って答える。
実はね、2015年の年末以降、事あるごとに1番最初にTatsuと一緒にレコーディングした音源を聴き返してたの。
その度に、「これが世に出てたらどうなってたんだろうな?」っていう事を考えてた。
「何とかしてまた出来ないかな?」って何度も考えたけど、当時の自分の力じゃ何も出来ず、方法も思い付かず、結局何も行動出来ずに終わった。
それで、GaryuがボーカルのDark Urban Boysgroupだって、今思うといつだってライブ活動をする事が出来たはずなんだよ。
Garyuと一緒に「何かやりたい」って思ったのって、Garyuのライブを観てそう思った訳で、「このメンツでライブやりてーなー」っていつも思ってた。
でも、忙しさにかまけてやらなかった。「まあ、いつか出来んだろ」って思ってた。
そしたらいつの間にやらこんな時代に。別に出来なくはないのだけども、、それはちょっと現実的では無い。
だからね、もうDark Urban Boysgroupって、自分の人生においての"後悔の塊"みたいな存在で。
自分って、良くも悪くも後ろを振り返らない人間だから、人生において後悔してる事って殆ど無いのだけど、Dark Urban Boysgroupに関しては後悔ばっかり。
だからこそ、燃やす。
跡形も無く燃やして、次のフェーズに行く。
だから、「CREMATION」をリリースする事って、誰の為でも無く、自分の為なんですよ。
はっきり言って、Tatsuがボーカルの時の音源だって、もしかしたら人によっては「そんなに良いか?」って感じるかも知れない。
でも、そんな事はどうでも良い。
とにかく、世に出す事に意味がある。そして、出すからには多くの人に聴いてもらえるように頑張る。自分なりにね。
それで結果がどうなるのかなんて、誰にも分からない。
MUSIC VIDEOも撮る予定だから、絶対に赤字なんだけど、それでも今のDark Urban Boysgroupを映像でも残しておきたい。
ただそれだけ。
2013年にお蔵入りになったDark Urban Boysgroupの5曲は、自分にとっては滅茶苦茶大切で、一生涯愛せるであろう5曲である事は間違いないし、Garyuと作った曲達も、"今の自分"がカッコ良いと思える事を全てぶち込んだ。
Garyuとの楽曲は3曲収録予定なんだけど、その内2曲はドラム、生音修正一切無しの1発録りだから。
敢えて、この時代にそういう録り方をした曲をリリースするっていう、自分なりの現代の"ドラムじゃないドラム"に対するアンチテーゼ。
今のYU-TOの、丸裸のドラミングが聴ける楽曲に仕上がってます。
リリースまでは少し時間があるけれど、色々な進展状況などは今後、逐一noteに記していくつもりです。
この記事を書き始めた時は、そんなつもりは無かったのだけど、結局こんなにも長い記事になってしまった、、(苦笑)。
今まで、バンドメンバーにも明かして来なかった気持ちだとか、今の自分の正直な気持ちとかを洗いざらい書いたつもりで、"こんなストーリーがあった上でのDark Urban Boysgroupなんだ"って事を知ってもらえたらなと思っています。
だから、敢えて今回の記事は"激人探訪スピンオフ"として出させてもらいました。
諸々、今後の動きなど注目してもらえたら嬉しいです。
忙しくなるぜ、2021年。