私と料理
久しぶりに生焼けハンバーグを出してしまった。
スーパーで買った厚めの成形済み肉。フライパンで蒸し焼きするだけで完成するはずのもの。両面をこんがり焼いたあと、念には念をと20分ほど蒸し焼きにした。
ところがだ
「肉汁すごいなと思ったら、生?」
次女が箸で割ったハンバーグの断面を見せる。
「生ですね。もう少し焼きます。」
またやってしまった。
冷凍のままフライパンに乗せてしまったのが悪かったか。
まだフライパンを洗ってなかったのがせめてもの救いだと思いながら、席を立ち、回収したハンバーグたちを再び蒸し焼きにする。
生焼けの肉、生焼けの魚、生煮えの野菜。すべて常習犯。
カレーやシチューは苦手。じゃがいもの煮崩れを気にしてよくかき混ぜないから、ルーの溶け残りが鍋底にいる。
素麺も苦手。たっぷりのお湯で茹でないから束になって固まった麺が量産される。
何年やっても苦手は苦手。それでも必要に迫られてやっている。人には得手不得手があるけれど私にとってこれがまさにそれ。
ジュージュー泣き始めたハンバーグたちを見ていたら、昔立っていた台所のことを思い出した。
毎日を必死に過ごしているうちに、いつの間にか遠ざかった10年以上も前のこと。
これは私が誰かの妻だった頃の話だ。
当時住んでいたアパートは玄関から居間に続く空間に申し訳程度の台所設備があった。
ガス台にはふたくちコンロがガス栓剥き出しのままに置かれており、作業場は水切り場を設けるとまな板を広げるのもやっとのスペースしかなかった。切った食材はすぐに鍋やらフライパンに放り込まなければ次の食材を広げることができないし、完成した料理をダイニングテーブルに運ばなければ次の品の調理もできなかった。
お風呂場に洗面台がなく、洗顔も歯磨きも台所の洗い場で全てをすませていたので、夫が身支度をする時間と私が料理をする時間が重なるととてもやりにくかったことを覚えている。
それだけならまだしも、何かと使い勝手が悪かったのは冷蔵庫だった。
居間と居間に続く空間を仕切る引き戸があったのだが、他の選択肢がなく、やむを得ず冷蔵庫はその引き戸の先、つまり居間に設置していた。引き戸を台所の作業場と冷蔵庫で挟んでいる格好だ。
作業動線に引き戸の微妙な出っぱりがあることで、料理に必死になると引き戸が見えなくなりぶつかってしまう。一つの食材を取り出そうとするたびにぶつかりそうになるというのは地味にストレスだった。
そんな台所で私が料理と向き合い出したのは、つわりが落ち着いて、夫と暮らしはじめてからだった。
当時21歳。それまで私がしたことのある料理といえば、バレンタインのお菓子作りや家庭科の調理実習。母が不在時の食事作り。スポットで自分の好きなものを好きなように作る。しかも手間のかからない簡単なもの。それでもよく失敗をして、首をかしげることばかり。
一方の夫は調理師専門学校を出でおり、仕事も飲食業。家でまで包丁を握りたくなかったのか、ほとんど台所に立つことはなかったけれどその道の駆け出しのプロ。言われもないプレッシャーを感じずにはいられなかった。
母からもらったレシピ本を居間のダイニングテーブルに広げ、台所と居間を行き来しながら料理をしていた。大さじ小さじに計量カップを使い、適量とはどれくらいだろうと悩みながら。
帰りの遅い夫のおかげで、夫が帰るまでになんとか台所をきれいにすることはできていたけれど、大したものも作れないのに料理後はいつも山のような洗い物があった。
失敗の話をしようと思うときりがない。
じゃがいもやにんじんが煮えきっていない肉じゃがを出したり、血抜きができていなくて噛んだらじんわりと血が溢れる手羽元を煮込んだ(はずの)ものを出したり。
袋麺を作った時は、ラーメンを茹でたお湯でスープを作ってしまい、なんとも言えないドロドロの代物が出来上がった。袋麺なら何も見ずに作れるとたかをくくり、書かれている説明もろくに読んでいなかった。
これはさすがに夫に呆れられたけれど、不勉強だとか手際が悪いだとか文句を言われたことは一度もなかった。
きっと口出ししたいことはたくさんあっただろうけど、夫はいつも、「作ってくれてありがたい」「おいしいよ」と言って私の料理を食べてくれていた。
料理ができる、美味しいものを作ることができるということは、私にとって優先度が低いことだ。
ゆえにさほど覚える気がない。上手くなろうという気持ちもないのだと今でこそ自覚しているけれど、はじめからそんなことを思っていたわけではない。
一生懸命働いてくれる夫のために美味しいものを作ろうとか、子どもに美味しいものを食べさせてあげるために練習しておこうとか、今はできなくてもきっと上手くなってみせるんだとか、当時は意気込んでいた。
一緒に暮らしはじめて間もなくのことだっと思う。
かぼちゃの煮つけを作ろうと思い、まるまる1個のかぼちゃを買った。
その日はじめてまんまるのかぼちゃに包丁を入れたのだが、思っていたよりもずっと硬くて、差し込んだ包丁がそれよりも先に進むことも戻ることもできなくなってしまった。
包丁の刺さったかぼちゃをまな板にたたきつけてみたり、反対の手を添えて全身で包丁を押し込んでみたり、ひとしきり試したあとに、もう一度包丁を抜いてみようと試みた。
慎重にやっていたつもりだったけれど、包丁が動き出したときに油断をした。まな板からかぼちゃがすべり、添えていた手の人差し指に包丁の刃がかすった。かすったというよりも指を切りながら包丁が動いたと言った方がいいかもしれない。
血が止まらなくなるほどの深い傷ができて「今日は諦めよう」と、少し切込みの入ったかぼちゃを野菜室に戻した。
帰ってきた夫は血だらけの絆創膏を見るなり驚いて「包丁の持ち方が危なっかしいんだよな」と言いながら手当し直してくれた。
それから「ラップに包んでレンジにかけてから切るといいよ」と言って、切り込みにラップもせずにしまい込んでいたかぼちゃを手に取ると、するすると作業して見せてくれた。
それから今もずっと、まるまる1個のかぼちゃを買ったときにはそのやり方で調理するようにしている。
技量がないことはさることながらレパートリー不足にも悩んだ。
当時は今ほどネットでレシピやレシピ動画を気軽に見れる環境ではなかったし、一度フライパンで焼いたものを取り出してまた加えるとか衣をつけるとか、工程の多いものはとにかく敬遠していた。
加えて材料費、ガス代電気代水道代の節約節約節約。節約が頭にこびりつきすぎて買い物に行ってもカゴの中身はいつも似たりよったり。
はりきればはりきるほどに想像していた新婚生活とはほど遠いことに気づき、自分で思っていたよりもずっと、自分には家事ができないことを思い知らされる毎日だった。
母親になるのだから料理くらい難なく作れなければならない。それなのにできない。できないことばかりに目が向いて落ち込むことが増えていった。
それだけではない。バイト代でカフェや居酒屋に入り浸っていた大学生が、あるときをきっかけに家猫のようにこもりきりになり、自分に関わる人たちも昨日までと今日からで全く変わってしまっていた。
今まで持っていた気持ちと新しく持った気持ちを、誰にどう伝えればよいのか分からず、それらを消化するにはたくさんの時間が必要だった。
まわりが遊んだり就職活動をしたりするのを横目に通っていた産婦人科は、
淡いピンク色を基調とした建物だった。その中にはいつもたくさんの妊婦さんがいて、自分と同じ時期に妊娠している人がこんなにもたくさんいるのかと驚いた。すれ違い隣り合う人たちは皆違う顔をしていて、そのどの人も今まですれ違ってきた人たちとは全く違う種類の人たちばかりのように見えていた。大学生だけれどもうそれだけではない。私はどこに所属している人間なのだろうなんてことを、この時にはじめて感じていた。
そんな産婦人科で学んだことで今でも覚えていることがある。両親学級で栄養士の先生が、「赤・緑・黄色・白・黒の五色を目標に献立を考えると自然に栄養バランスがとれた食事になります。」と言っていたことだ。
赤はトマトやパプリカ、赤身のお肉
緑は葉物野菜にエンドウ豆やキウイフルーツ
黄色はかぼちゃにみかん、卵にナッツ類
白は大根や白身魚、乳製品
黒はのりや海藻類、きのこ類
五色が食卓に揃うと「今日は完璧だ」という気持ちになる、身体にも心にも魔法をかけてくれる五色だ。
夫の「ありがとう」と五色の魔法で励まされていたから私は料理初心者時代をなんとか乗り切れたのだと思う。
出産後も失敗を繰り返しながら料理を作り続けていた。
産前産後で大きく変わったのは、大さじ小さじ計量カップの登場回数が格段に減ったことのように思う。相変わらずレシピ本は広げていたものの、調味料を細かく測る余裕なんてなくなっていた。
いつ泣き始めるか分からない子どもを見ながら料理をするのは想像していた以上に大変だったし、日に日に大きくなる子どもを背負いながら台所に立つのはものすごく体力を消耗した。
鍋1周分、フライパンの縁にこのくらいみたいなことをし始めたのはこの頃だったと思う。
子どもの離乳食が始まってからは作り置きもするようになった。
炊いたごはんをドロドロにすりつぶしたものや、野菜をすりつぶしたものを製氷機に入れて冷凍保存する。これが私が始めてした作り置きだ。
同じものを出しても食べる日があったり食べない日があったり、遊んで遊んで食器ごと食べ物を撒き散らかされたり。
これらは子どもをもった人なら皆経験することだと思うけれど、自分が作ったものを食べてもらえないというのはつらかった。
苦手なりにも一生懸命やっていたつもりだったし、一食でもきちんと食べてくれないと子どもの体調が心配にもなる。
当時は蒸しパンやおやきなどのおやつも手作りしていた。
できる限り手作りでという気持があったのは、第一子マジックか自分の労力をかければ余計なお金をかけなくて済むというところだけれど、今となってはちょっと苦手を頑張りすぎていたのではないかと思う。
慣れない育児と相まって、やればやるほど料理が嫌いになり苦手意識をもつようになるという悪循環に陥っていった。
気づいたらもう次の食事の時間。やってもやっても終わらない無限ループ。
そこに泣いている子がいるから。夫が帰ってくるから。何かを用意しなければ。
絵本やドラマに出てくるようなおっとりしたお母さんはきっと幻想なんだ。愛情とか気持ちのこもった料理なんて毎日毎日あんな表情でできるわけがない。
いつも何かに追われながら立つ台所はとても孤独だった。
私が仕事を始め、長女が保育園に通い出してしばらくたった頃、そんな状況が変わるきっかけとなる出来事があった。
ひどい咳と高熱が続き、医師に「絶対安静」を命じられた。今すぐに入院するか、自宅で絶対安静にするか選択を迫られ、私は当然、自宅での療養を選んだ。一切の家事育児を禁じられたけれど、小さい子どもがいるのにそんなことできるわけがない。いったい何を考えているのだと、理不尽な怒りを覚えながら、医師の指示を無視する気満々でいた。
今まで家事や育児に費やしてきた時間の半分以上が外で働く時間になり、環境の変化で長女は泣きわめき、私は家事も育児も仕事も完璧にこなさなければと必死になっていた時だった。どんな状況でも自分の力でなんとかしようと思っていたし、そうしなければならないと思っていた。
「一度深呼吸をしてみようか」という夫の言葉にもいつの間にか耳を傾けられないくらいに周りがみえなくなり、自分で自分を追い詰めていることにも気がつけなくなっていた。
「とにかく横になるように」と、夫は仕事を休み、台所に立つ私を布団に押し込んだ。休めない日は、私の母や義母が代わる代わる家に来てくれるように連絡をとってくれた。
散々諭されて布団の中で丸くなっていると、周りが動いてくれる音や気配を感じた。はじめはあんなに拒んでいたのに、それらの気配は決して不快なものではないと思うまでにさほど時間はかからなかった。
次から次へとやってくるタスクに追われて高速回転し続けていた脳が、ゆっくりとほぐれていく感覚がして、やっと私は人に頼ることを学んだ。
自分のことは自分でやる。人に迷惑をかけてはいけない。母親は料理くらい難なく作れるし、そうでなければならない。そんな無意識に作り上げた理想像に縛られていては自分がもたない。
凝り固まっていた思考をほぐさなければ私はタクスでめいいっぱいになり、イライラが募りパンクする。子どもや夫に当たりはじめる。いいことなんて何もない。
完璧なんて目指さなくていいのだ。そう思えるきっかけとなる出来事だった。
次女が生まれてからはなおさら、時間も心もどんどん余裕がなくなった。手を抜くことを考えないと、とてもではないけれど一日一日を乗り切ることができなかった。
家で食べない食材を保育園では食べる。保育園では何度もおかわりをするほどよく食べる。そんな話を聞くようになり、保育園で栄養満点の食事をしっかりとっているなら家の食事は100点でなくても大丈夫ではないのかと思った。
夫はプロだけど私は料理のプロじゃない。
保育には保育のプロがいて、子どもの食事づくりのプロもいる。
「私は母親だけれど料理のプロではないのだ」とポジティブに諦めがついたという言い方が正しいのかもしれない。
私ができるのはこの程度。おいしいものは外で食べましょう。と。
担いでいた重りをおろし、次第にエネルギーを仕事に傾斜しはじめた。
そして次第に、料理ができる、美味しいものを作ることができるということは、私にとって優先度が低いことだ。ゆえにさほど覚える気がない。上手くなろうという気持ちもないのだと自覚した。
料理はほどほどでいい。私はそれ以外のことをがんばろうと。
そんな私だけれど、一度だけお店で食べるようなパスタを作ることができたことがある。
ある日の昼食に中途半端に残っていたミネストローネと冷凍庫に眠っていた魚介ミックスをあわせてトマトと魚介のクリームパスタを作った。
そこにあったものを何気なく組み合わせただけだったけれど、一口口に入れた瞬間に目をまるくして「おいしい!」とほめてくれた夫の顔は今でも覚えている。
自分でもびっくりするくらい美味しくできていて、その時はやっと私も料理の腕を上げたものだと思った。
それと同時に、料理で人を喜ばせることができたことで、夫がどうして料理を仕事にしていてどんな気持ちでそれを続けているのか、本当の意味で触れることができた気がして嬉しかったことを覚えている。
けれど、あの味の深みのようなものはその後何度挑戦しても再現することができず、私の中ではもはや幻の料理のような位置づけになっている。
小さな台所とあのパスタについて、目の前の肉の塊を眺めながら考えた。
あのパスタを再現できないだけでなく、私はあれ以上に美味しいと思えるものをいまだに作ることができていない。
その理由について一番考えられることは、私が目を離した隙に夫がこっそり調味料を加えておいて、何食わぬ顔で食卓に並んだ料理をほめてみせた。というものだ。
あれは私の技量によるものではないのだとしたらとても納得がいく。
失敗ばかりで料理に対する気持がしぼんでいる私をみかねて自信をつけさせようとしてくれたのか、ただの遊び心だったのかはわからないし、つらかった時期でもいいこともあったよねと思いたい私のただの願望かもしれない。
それでも別れまでの記憶ばかりが鮮明で、二人で笑いあった記憶なんて忘れてしまっていたから、久しぶりに思い出した夫の笑顔にはっとさせられた。
しまい込んだ奥の奥に一緒に手をつないで過ごした日々があって、それはきっと私にとってよりも「ハンバーグまだー?」と首を長くして待っている子どもたちにとって、とても大切なことのはずだと思う。
子どもたちが大きくなるにつれて仕事はどんどん忙しくなっていった。夕食を作ることもままならなくなる日もたくさんある。
朝起きたら頭は半分眠ったまま、朝食の準備と自分のお弁当、そして夕食の準備をする。給食がないときには子どもたちの昼食の準備もする。
なんとなく手に取った野菜を切りながら、今日はなにを作ろうかと考える。鍋やらフライパンを握り、火が通るのを待ちながら洗い物をする。こんなものかなと思いながら味付けをする。できあがったものはガラスのタッパーに移して粗熱をとる。
子どもたちが起きてきたら朝食を並べつつ、調理を続ける。子どもたちが食べ終わると同時に調理も終了。一気に残りの片づけをする。
平日はこれで一日の料理は終わり。
朝イチで朝昼晩全部作っておけば、想定よりも帰宅が遅くなっても安心。
あの頃の私に、いまだに生焼けハンバーグを出すけれど、ここまでできるようになったんだよと教えてあげたい。
嫌だ嫌いだと思いながらも毎日作り続けた料理を食べてくれて、子どもたちはびっくりするくらい大きくなった。
お皿に帰ってきたハンバーグに箸を入れながら
「今度は大丈夫かなー」
と覗き込む子どもたちは、私の料理の駆け出しの頃のことなんて覚えていない。レシピをみなくても作れるようになったとか手際がよくなったとか、そんな成長に気がつくのは自分だけだ。
自分以外で私の料理の成長に気づくとすれば元夫しかいないと思う。
「離婚しよう」と言ったあとのことは思い出せない。
別々に食事をとっていた気もするし、私が料理を作って、変わらずに一緒に食事をしていた気もする。
小さな荷物だけを持って出ていく姿を見つめていたとき「あの子はあなたと別れたいなんて思っていないのよ」と言った義母の声が頭に響いていた。
あの時私はどんな顔をしていたのだろう。
「あの頃は下手だったよね」
そう言ってくれればいいのに言わない元夫。
とりとめもないほどの小さな成長を積み重ねてきたことも、変わらない失敗も、きっと気づいてくれるはずだと思うのはなぜだろう。
明るい食卓の後ろに漂う時間は、まだあの頃のままなのかもしれない。