【連載】サロン・ド・フォレ -2-
茂みにしゃがみこんで、どれくらいの時間がたったのだろう。
なにかに追われた恐怖でまだ心臓がどきどきしている。
確かに視線を感じた。確かになにかに追われた。
それなのに森へ飛び込んだ瞬間、また地面がぐわんと揺れ、なにかが追いかけてくる気配が消えた。
大きな茂みにしゃがみこんで身を隠し、地面を見つめて呼吸を整えた。時折、茂みのあいだから外の様子を伺った。
なにも追ってこない。
やはり気配は消え、なにも来ない。
けれど、なかなか茂みから出る勇気が出ない。
あと10分、なにもなければ茂みから出てみようと思い、腕時計に視線を落とした。
ない。
左手首になにもない。そして、持っていたはずの鞄もないことに気がついた。
シルバーの腕時計は彼からの誕生日プレゼントで、彼からもらって以来、仕事の日にはかかさずつけていた。今朝だっていつもどおりつけ、通勤時や仕事の合間に何度も見た。
鞄だってどこかに置き忘れるはずはない。
追われているときに手を離してしまったのだろうかと考えかけて、やはりそんなはずはないと思い直す。
会社から最寄り駅までは確実に、鞄も腕時計もあった。いつもと同じようにに電車に乗ってきたのだから。
けれど砂の道を歩いていたときはすでになかった気がする。いつのまにか私は手ぶらで歩いていた。
そもそもなぜ私は砂の道を歩いてきたのか。
会社帰りだった。彼と住んでいる家に帰ろうとしていた。
日が少しずつ短くなってきたから、最寄り駅に着いたときには空は暗くなりかけてた。
それなのに、どうして今は明るいの。
どうして日が出ているの。
見上げた空は雲一つなく、きれいな水色をしている。
先ほどとは別の恐怖に襲われて、思わず自分の両腕を抱きしめてうずくまった。
いつまでも帰らない私を心配して、彼は電話をかけるはずだ。何度電話をかけてもメッセージを送っても繋がらなければ、家を出て探してくれるはずだ。
会社や共通の知り合いや実家にも連絡を入れてくれる。みんな探してくれるはず。
何度も何度もその情景を想像してみる。
砂の道をなんの疑いもなく歩いてきた私、誰もいない街、大きな魚、私を追うなにか、突然現れた森、消えた持ち物、青い空。
すべてがおかしいと気づいても今の状況を受け入れることができず、彼が私を探す横顔を何度も想像した。
帰れなかったらどうしよう、と思うと涙が溢れた。
何度目かの涙を拭おうとしたとき、ひらひらと小さなものが落ちてきた。
地面に落ちたそれは水色で、光を浴びてキラキラと輝いている。
そっと手を伸ばし拾い上げてみると、ガラス細工の欠片のように見えたそれは、桜の花びらと同じ形をしている。手触りも薄さもまるで桜の花びらだ。
飛んでいってしまわないかと、おそるおそる手のひらに乗せてみた。
どこから飛んできたのだろうと、風上を見る。
なんの変哲もない森だったはず。
花はなく、葉はすべて緑色だったはず。
そんな森に桜のアーチができていた。
キラキラと光る、水色の桜のアーチ。
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