タンザニアで恐怖体験 空港で拘束6時間の末に見えてきたもの
「日本へ帰ってもらおう」
その言葉だけははっきり分かった。
初めてのアフリカに心を躍らせていた。
次の会社までのギャップ期間、2ヶ月をボランティアをしながらアフリカで過ごすのだ。すでに日本でボランティア先メンバーとの関係もできていたため、全ては順調のように感じた。
18時間のフライト後、最初のボランティア先であるタンザニア ダルエスサラーム国際空港に到着した。
コロナ検査、入国審査も順調すませ、あとは送迎車に乗り込むだけ。さっきドライバーから連絡も来ていたから完璧だ。
そう思っていたが、最後の荷物検査で思わぬトラブルが待ち構えていた。
「この荷物は何だ?こっちの部屋に入れ」
目つきの怖い私服の人物に呼び止められ、悲劇は始まったのだった。
タンザニアはアフリカ大陸の東海岸に位置する国である。赤道が近いことから、気温は年間を通して25-30℃程度で安定している。国土は日本の2.5倍だが、人口は約半分である。
主要産業は金、コーヒー豆のほか、農業、サービス業となっており、実に人口の約7割が農業に従事している。
公用語はスワヒリ語。英語も通じるが、地方に行くと話せる人の割合は減っていく。
同国は2020年、GNIの上昇で低中所得国入りしたが、一人当たりのGNIは1,080米ドル、貧困率は25%と依然として貧しい国である。
その安さから中国製の電子製品が受け入れられ、街には日本では捨てられるような中古品も日常のように取引されている。なお意外にも車はほとんど日本車が選ばれている。関税の安さと燃費の良さ、悪路でのタフさがその理由である。
そんなタンザニアでは、経済状況によって中学校、高校に行くことができない子供たちがたくさんいる。WEEDO Tanzaniaは、その中でも就業適齢期(16-20歳前後)の女性に向けてほぼ無料で学校を運営しているNGO団体である。就業に向け、通常の公立学校よりも実用的なスキルにフォーカスしている。
学校の運営メンバーや先生は常時不足しており、運営や授業のサポートのため全世界からボランティアを募っている。
私は、その中でも基礎的なデジタル(コンピュータ)スキルを教えることになっていた。授業に必要な教材(授業のためのプロジェクタ、PC)は現地で手に入れることが難しいとのことで、日本から持っていくことになった。
まさにこのプロジェクタが問題の引き金となったのであった。
プロジェクタを私から取り上げ、男は別室へと私を連れて行った。
部屋にはパソコンとプリンタがあり、一般的なオフィスのような場所であった。少し安堵したところで男はプロジェクタはいくらかと聞いてきた。私が4万円と答えると、彼はPCに数値や条件を入力し、1万円強を払えと伝えてきました。私はここでようやく、彼らが税関であることを悟った。
交渉は1時間にも及んだ。この機材はボランティア目的のものであり、営利目的でない。再三に渡って彼に伝えた。状況をNGO代表に伝えると、代表も電話で交渉に入ってくれることになった。まず機材の情報を伝えるために、写真を撮った。この写真が次なる悲劇を生んだのだった。
「おい、お前!今何を撮った?」
税関が荒い口調で私を睨みつけながら言った。
まずいことをした。それだけはすぐに分かった。
彼は携帯を取り上げ、写真を見ながら、別の誰かと電話をし始めた。
電話を切るとすぐに警官と思われる人物が部屋に入ってきた。
私は別の部屋に連れて行かれた。
部屋は机と椅子、座椅子があるシンプルな部屋だった。複数の警官が部屋を出入りしており、警察用の控え室であることは分かった。
しばらくすると警察が4人ほどゾロゾロ入ってきて、私の撮った写真をチェックしている。実はプロジェクタの後ろに税関の姿が少し写っており、それが問題となっていたのだった。
何やら議論をしているが、スワヒリ語なので全くわからない。不安だけが増大されていった。自分はこの先どうなるんだろう。全く想像できなかった。しばらくすると1人を残し、その他の警官は部屋から出ていった。お前はここで待て。それだけ伝えられた。
3時間ほど経っただろうか。極度の不安状態で、人はこんなにも疲れてしまうのだろうか。私はすっかり疲弊していた。 気づくと先ほどの4人の警官が戻っていた。後から一人女性の警官が入ってきた。 少し経つと、女性警官と4人の警官の代表と思われる人物がスワヒリ語で議論を始めた。何を言っているか全く分からなかったが、女性警官は私の味方のようであった。代表の警官は、いかに私が悪いことをしたかアピールしているようだった。そしてあの言葉を聞いたのである。 「日本に帰ってもらおう」 なぜこの意味が分かったのかは今でも分からない。もちろんスワヒリ語を数時間で習得できるはずはない。 でもはっきりとそう言ったことが分かった。私は最悪ケースを覚悟した。
議論は終わり、警官は部屋から出て行った。また先ほどと同じように私は部屋に残された。もう入国できなくても良い。いつ解放されるのか、それだけがその時の関心ごとだった。
また1時間ほど経ち、時刻は夜の6時になっていた。お昼を食べていないおらず、空腹状態であることにようやく気づいた。マジで何か食べさせてくれ。
ちなみに一緒に部屋にいる警官はおやつにピーナッツをボリボリ食べていた。分けてくれ。素直にそう思った。
羨ましそうに見ていると、突然部屋が真っ暗になった。停電だった。
タンザニアでは停電は日常茶飯事のように起きるのだが、その時は自分の将来のイメージと照らし合わせて考えてしまった。まだ悪いことが起こるのか。。と。
電気は数分で戻った。しばらくすると警察4人衆が戻ってきた。
警官は何やら笑顔である。先ほど鬼の形相だった代表でさえ、とてもリラックスしている。
「この件、終わりにしてやるぞ」彼はようやく英語を使い私に話してきた。
何がなんだか分からなかった。停電のイメージとは裏腹に事態は良い方向へと向かっていった。
代表は数ページにも及ぶ紙の書類(案件の詳細)を書きあげ(30分以上かかった)、私は最後にそこにサインした。
サインを終えると、後ろから聞いたことのある話し声が聞こえた。振りかったところ、そこにボランティア先の代表がいた。
彼女が全て手続きを済ませてくれたのだった。ようやく理由が分かり、ホッとした。
私は飯代という名の賄賂(5000円ほど)を払い、ようやく空港から脱出した。後から聞いたのだが、見方になってくれていた警官はNGO代表の知り合いだったそうだ。
タンザニア人は良い人が多い。私がボランティア生活を通じて感じていることだ。困っていたら必ず助けてくれる。
しかし、この物事をゆっくり進める国民性(通称:Pole Pole文化)と極めて高い失業率がタンザニアが貧困から脱出できない大きな理由ではないかと感じた。
次回はボランティア先での業務内容、それを通して分かった教育システムの根本的な課題について執筆したい。