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ゆるやかに記憶から消えたとしても

母の誕生日祝いを持ってグループホームを訪ねました。

持って行ったお花を渡して、「写真を撮ろうか?」と言うと、上手に花を抱いて、笑顔でカメラを見てくれました。

以前から思えば、本当に穏やかになって、私のことを微笑みながら見てくれるのですが、それはもう、娘に向けるまなざしとは少し違う感じ。

「あなたの名前ねぇ。。何だったかしらね。お世話にならないといけないですね」と。

唯一、覚えていた私のことも、何となくしか分からなくなっているのだろうな、と感じ取れる最近の母の様子に、やはり胸を締め付けられ、涙がぽろぽろ流れてしまいました。(このところ、泣くのを止められなくて…)

グループホームのケアマネージャーに、「私のことも分からなくなってきているみたいですね」とお伝えすると、「ご希望があれば、普段からご家族の写真を見せて、お話して差し上げることもできますよ」と。実際に、そうして欲しいと希望しているご家族もいらっしゃるのだそうです。

でも、私はお断りしてしまいました。
母はこの先、どんどん解き放たれて自由になっていくのですから、流れに逆らうようなことをしたくないなと思って。

ゆるやかに記憶から消えたとしても、それこそが自然なことなのです。

母に覚えていて欲しいと願うのではなく、私たちが母を覚えていれば、それでいいですよね。

話しているうちに私のことも少し思い出し、帰り際にはいつも通り、「あなたは今日からここで働くのだから、皆さんの言うことをよく聞いてね。エレベーターに一緒に乗りましょう」と母。「エレベーターは2人用だから、ママとスタッフさんで乗ってね」と答える私。(「後から行くね」は噓になるので、いつもこんな風に答えています)このやり取りをいつまで続けられるのかな…と考えながら、エレベーターに乗る母に手を振り、見送りました。

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