「かわいそう」?

かわいそうってなんだろう?自分は、かわいそうなんて言葉はここ最近全く使っていない。脳内でかわいそうだなあと思うことはあっても、それを文面にして他人の目に触れるようにしたり口に出したりすることは極力避けようと思っている。

日本語は正しく、きれいなものを使うべきだと思う。自分はツイッターをやっていて、呟く頻度はそこまでではないにしてもアカウントは複数持っているしどれのTLもかなり追っている。当然、若者言葉であったりネット上で頻繁に使われるようなフレーズやスラングの類もそこそこ知っている。だがそういう言葉たちを見聞きして知っていても、現実の世界で人が使っていたり、ネット上でも過度に使われていたりしている現場に遭遇してみるとなんだか冷めてしまうように感じる時がある。草とか、ンゴとか、陽キャとか陰キャとか、そういう類だ。

なぜだろう。理由は自分にもはっきりとはよくわからない。私はネットの世界に入り浸っている人間ですよと言っているようなものだからか、とか考えたことはあるが、特に後半の二つの例なんかは学校で普通に使われていた言葉のように思う。思うに、自分が○○キャという言葉が苦手なのは主観で様々な面を持つ他人をたった二つのグループに無理矢理分けようとする烏滸がましさがあるからではないかと思う。

言葉にこだわりなんてあろうがなかろうが、別に本人が気にしていなくて他人も特に傷ついていないならとやかく言うほどのものでもない。自分はここであーだこーだ言っているが、別に傷ついているわけでもない。単にこうした言葉たちが自分の趣味に合わないというだけのことだろう。それだけの理由で他人が使う言葉の選択肢を狭めていいわけではない。

冒頭に戻って、かわいそうという言葉について。なぜ自分はこの言葉をあまり好まないのだろうかと考えて思ったことがある。おそらく自分が○○キャという言葉が苦手なのと通じている部分が根底にある。かわいそうと言ってしまうのは相手を憐れんでいるからで、そこには相手を自分の価値基準に照らし合わせて勝手にその枠に押し込むという行為がある。そういうプロセスを経ないとかわいそうという言葉は出てこない。この意味で○○キャという言葉に通じている部分がある。

しかもかわいそうという言葉は相手を自分の基準で勝手に量っている上に勝手に憐れんでいる。多分、相手を下に見ていないとこんな言葉は使われないだろう。この意味でもかわいそうとはその単語の端々から傲慢さが滲み出ていて、使うことすら悪質とさえ言えるのではないかと思ってしまう。

さらにもう一つ悪質と言える要素がある。それはこの言葉が一般的な言葉で、老若男女が悪気なく日常的に使う言葉だという点だ。基本的にこの言葉を選択的に自分の身の回りから排除することはできない。言葉は自由なものなので、さっきも書いたように周囲の人の言葉遣いを制限するようなことはしてはいけない。制限しようとしたとしても、そのさらに周りからかわいそうという言葉が聞こえてくるだけなのでただの徒労だ。この言葉を普通に使っている人を見るたびに違和感はないのかと問い質してみたくなるがさすがにする気はないし、したとしてもそれこそ徒労だろう。どうやらこの悪魔の言葉には我慢するしかないようだ。

ほかにもぼんやりと考えていることはいくつかある。例えば、アレという言葉だ。アレだよアレ、なんて言っただけで文脈的に意味が相手に通じることなどいくらでもある。アレなんて指示語を使わなくたって、言いたいことはあるけどうまく言葉に出せないから察してよという雰囲気を出しさえすれば相手が勝手に解釈して納得してくれる、というのは現実世界ではよくあることだろう。

しかし、これは問題だと思う。意図的に言わずに理解させたい場合を除けば、言いたいことがあるのにうまく言葉にできず文脈から読み取ってもらうなんて、自分には語彙力が欠けていますよと宣言しているようなもので、はっきり言って恥ずかしいことだと思う。ここで欠けているのは語彙力だろうが文章を構成する力だろうが何でもいいが、とにかく日本語を頭の中で作るのが下手なのだ。自分を表現するのが下手。そう相手に思われてしまうだけでも損だし、かっこ悪い。できるだけ言いたいことははっきり言葉にする努力をするべきだ。途中で放棄してはならない努力だと思う。

あとは最近問題になっているよくわからないカタカナ語だ。エビデンスなんて言わなくても根拠とか証拠と言えばいいのに、おそらくそんな言葉は思いつかないのだろう。誰がこんな分かりづらい言葉を使い始めたのかなんて知らないが、多分頭のいい人が上で書いたような適切な言葉が見つからない状況に陥った時に、咄嗟に言いたい言葉の英訳を言ったのではないかと思う。そして、ある程度頭のいい人が使った言葉を真似してそうでもない人までがちょっとカッコつけてみたせいでここまで新出のカタカナ語が広がっているのではないかと思う。

おそらくこうした人たちは今言ったカタカナ語を日本語に言い換えてみなさいなんて言われてもできない。こういうところもカタカナ語を使う弊害だ。日本語の弱さが露呈してしまっている。多くの人には最近出てきたこういうカタカナ語は通じないというのももちろん問題だが、そういう人にそれはどういう意味かと聞かれたときにすぐに答えられないというのも同じくらい問題だと思う。

ただ、例に挙げたエビデンスという言葉は高校生レベルで出てくる英単語だし、自分がよく勉強してさえいれば英語の意味からその人の言いたいことは正しく読み取れるはずだ。上記のような問題点は残るにせよ、自分が言葉の意味を理解できない時にはその落ち度は知識が足りない自分にも少しはあると思うし、わからなかったらすぐに調べなければならないと思う。スマホさえあればほんの十秒で検索できるのだからその癖をつけるべきだ。少なくとも自分はそうしている。

新しく何かを知ることは楽しい。言葉であればなおさら。言葉は常に流動的で自由に使えるが故に、見聞きした言葉を自分のものにしてしまうことは容易いからだ。新しく知った単語が読んでいる本に出てきたり、その言葉を使って話したり文章を書いたりするときは妙に嬉しくなるときがある。言葉は正しく使いたいし、言葉をもっとたくさん知りたい。こういう日本語の使い方の一つ一つを大事にしながら、言葉で身の回りを彩っていきたい。

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