恵まれていることと幸福度は比例しない
こんにちは。
今回は「恵まれていること」と「幸福度」の関係性を自分なりの考えに基づいて書いていこうと思います。
まず、「恵まれている」というのはどの様な状況を指すのでしょうか。
そして、どの様な状態が「恵まれていない」ということになるのでしょうか。
このあたりはそれぞれ個人的な主観が強く出るのかなと思います。
一見金持ちの家に生まれたとしても、本人が何かしらの障害を抱えていたり、親からネグレクトや虐待を受けている場合はどうでしょうか。
基本的に他人は自分に対して「表面上+自分との比較」によって評価してくるものだと思います。
ないものねだりという言葉はよく聞きますが、人間はどれだけ社会的に成功していたとしても、自分が持っていないものに魅力を感じる生き物です。
ちなみに僕は両親が公務員で一般的には「恵まれている、安定している」という家庭に生まれました。
ですが、優秀な弟がいたことや親自身が優秀だったこともあり、そういった比較によって「弱い子、できない子」というレッテルを貼られていた様に感じました。
実際に「オマエはダメなやつだ」と言われたわけではないですが、ちょっとした発言や空気感でそういう風に感じていました。
学校でもいじめを受けたり、運動がとても苦手で体育の授業に笑われたことも何度かありました。
そのせいでスポーツに対してとてもマイナスなイメージを持っています。
高校生の頃には全校生徒の前で大きな声で怒鳴られたこともありました。
こういう経験から、組織や学校やスポーツなど人が集まる場面がとても嫌いになりました。
それでも両親が公務員だからという理由で「◯◯さんの子供だからしっかりした子供なんだろう」的な目で見られます。
ここでも親と比較をされることが嫌で仕方ありませんでした。
それと同時に、親の顔を潰さない様に振る舞う自分も嫌でした。
最近では不登校時がどんどん増え、子供達にとって学校が安心できる場所ではなくなってきてる様な気がします。
学校に行かずに引きこもっている子供がいたとしたら、
その子を「引きこもれる家があるから恵まれている」という風にも見えるし、「学校で友達と楽しい経験をすることが出来ずに恵まれていない」という風にも見えます。
この様な意見は、意見をする側が「今まで自分はどういう経験をしてきたのか」というバイアスがかかります。
ちなみに僕の意見としては、学校という場所は「学校の評価基準に向いてる人間だけが得をする場所」というイメージが強くあります。
僕が通っていた学校では、生徒は平等に評価されていませんでした。
基本的に学校基準で能力が無いと見なされたものは、「努力不足」か「やる気が無い」ということで片付けられていました。
絶対に「学校に向いていない人」というのが存在するわけです。
たとえ家が金持ちだったとしても、子供が学校が地獄だと感じていて、親からのサポートも無かったとしたら恵まれていないと思います。
「恵まれている」とか「恵まれていない」という一言でその人を評価するのはあまりにも投げやりな評価だなと感じます。
「恵まれているマウント」も正直気持ち悪く感じてしまいます。
ちなみに僕は金持ちの社長さんや有名なYouTuberを見て羨ましいと思ったことがありませんし、彼らを「恵まれている」と思ったこともありません。
逆に「有名になってしまったことで色々な場面で顔バレを気にしなくちゃいけないなんて、ものすごく不自由な人生だな」と思ってしまいます。
それよりも、例えホームレスで周りから白い目で見られたとしても、本人が楽しく生きていることの方が羨ましいと感じます。
社会や他人の目を気にせずに自分の意思で決定し、「誰に何と言われても関係ない」というマインドを持っている人がものすごく好きです。
テクノロジーが進化した今の時代、小学生も当たり前にスマホを持ってる時代に色々な問題が起こっています。
気に入らないクラスメイトを省いてグループを作り、グループ内で悪口を言い合ったりすることもあるらしいですね。
これって「スマホを持ってることが恵まれている」という一言では片付けられませんよね。
むしろ、「そんなくだらないことに時間と労力を費やせる環境があることが恵まれていないな」と僕は感じます。
僕が感じる「恵まれている感覚」というのは自分がそれを望んだ時に自分の手で掴み取れるということです。
要するに本人が自由に自分の意思で行動出来る状態です。
他者から「オマエは恵まれている」と思い込まされるものではないです。
金持ちの家でも「恵まれていると思わなくちゃいけない」という環境はちっとも恵まれているとは思えません。
お腹がいっぱいの時に高級料理を出されてもいらないですよね。
でも、めっちゃ腹減った時に食べる牛丼ってウマいですよね。
みなさんはどんな時に「自分恵まれているな」と感じますか?