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時と共に若返る我が推し
手塚治虫のSF漫画みたいなタイトルになりました。
趣味・推し活動のボヤキです。話聞いてくれる人はここにいてね。
私の推し、近年幼児化が進んでいる・・・女性らしい、かわいい男性に進化している。そんなはずでは。
説明しよう!私の推しは、二次元に生きる成人男性である。10年以上前に彼はこの世にやってきた。彼は長い時の中で、原作者の作風の変遷とともに少しずつ顔やスタイルを変えながら、今生きている。
推しは当初、素朴な顔立ちの青年だった。童顔とはいえ思慮深さを備えたその瞳は忘れられない。その後、原作者のイラストが美麗になり、さらにイケメンに磨きをかけていった。そんな彼に私はいつもメロメロだった。顔を見てるだけでりりしい。好き。ウットリする。
しかし、令和6年になった今どうだろう。なぜか推しは若返り傾向なのであった。顔はつややかで丸くなり、雄々しさを備えた目鼻立ちは、女性を彷彿させるふんわりした印象となり、表情も穏やかな微笑みが多くなった。いぶし銀な美しさを持つイメージだったのが、もはや生まれたてな真珠のような方向性で売り出し始めた感じである。
正直に言うと、子供っぽい。女の子みたい。こんなキャラクターだっけ?あれ?私の推しはカワイイ系イケメン枠だったっけ?ショタ枠どころか、設定上は相当な年長者の位置なんだが。そう思われても仕方ないビジュアルがリリースされ続けている。
うーん、好みじゃないんだよなあ・・・私の推しどこいった。私は、ちゃんと成人男性で、男性らしさをがっつり備えた彼が大好きだ。男性らしいところたくさん見たいし、女々しさとかいらないし、精神的にも大人であってほしい。けれど世に出るオモテの彼はその逆になりがち。見た目はフレッシュで雄みは薄く、いい意味で未熟さを発揮してかわいくあろうとしている。
きっと世間の需要のせいだよね。世間くんは、そっちの推しくんの方が好きで売れると判断して実績があるんだもんね。私と音楽性が異なるってことだね。
推しが生きている人間なら話が早い。推しが推しの意思で「僕はこういう風に生きていきたい」というのなら、私の好みから離れても仕方がないというものだ。推しの意思を尊重し、私は応援するなり離れればいいだけだ。
でも、彼は二次元のキャラクターだから、ファンとしては、解釈の自由がある。だからこそ工夫が必要になってくる。
二次元の推し本人ってどこにいるんだろう?と思った。原作は、長い時を経ても続いている。設定上同じ人でずっとやっている。けど、少しずつ変化して、サイレントに推しは別人へとなりかけている気がした。その理由の説明は誰もしてくれない。推しの意思は分からない。意思があるかも、ないかもわからない。こちらで考えるしかない。
例えば、原作漫画の不気味な鬼太郎と、アニメ5期の正義感あふれる鬼太郎がいる。彼らは同じ鬼太郎だけど、違いすぎるので、どっちを信じたらいいんだろう、ていう戸惑いに似てる。好きな方選ぶしかないんだよね。
いや待て。推しが若返っているのではなく、私が加齢したせいで、何かを卒業し、かつての好きだったものが子供っぽく感じるのかもしれない。推しが10代の学生設定だったら、永遠の学生でいられない私だから、学生を楽しめる感性がなくなったら縁が擦り切れてしまうのかもしれない。
つまり、私も推しも現在進行形で変化し続けているというわけよ。
「そっか、じゃあ私のせいだね。最新の推し、本来の推しはカワイイ系イケメンなんだね。タイプじゃないから次に行こう!」ってなりたくねえ~・・・私は推しが依然と変わらず好きだ。簡単に切り替えられないくらいの存在感なのだ。ちなみに、二次創作であれば私の好みのイラストは多数存在する。そっちの影響かもしれない。
私の推しは、ちゃんと雄々しくて思慮深い、オトナやってる男性なんだ。公式でいくらフェミニンな彼としてのグッズが売り出されてもここは崩したくない。思想は濃く深くしよう。信じたいものを信じよう・・そう思ったある日のことでした。