自分らしさを意識すると孤独になる
「ふつうのオタクやめる」と宣言した。その延長の話。
「こんなこともあるんだ」と受けながしてほしい。
経緯を説明する。私はオタクの自認があるが、大衆の嗜好と合わなくなってきたので、独自路線を開発している。ソシャゲはやらないし、流行りアニメは観ない。だってみんなが好きなものが私に合わないから。大衆向けではない作品の中から、もっと自分に深く刺さるものを探しに行く。
「ふつうのオタクをやめる」はそういうことだ。
しかし、普通のオタクやめる宣言をしても体感現実はそう変わらない。
本当にやめるなら、とある大人気作品の二次創作をやめて、Xのアカウントは放棄するべきなのだ。
なぜかって?
二次創作をする限り、神である公式が存在し、常に敬意と原典確認作業が必要になるからだ。
Xのアカウントを覗けば、見たくないファンアートが流れてきて被弾する。好きな作品ならいいけど、嗜好外の作品の地雷を喰らうことも多々ある。ミュートしていてもすり抜ける。
で、不満がたまる。なぜ自分は好きになれないのか。喜べないのか。Not for me なのになぜ手放せないのか。好きな人はどこを愛しているのか。自分はおかしいんじゃないか。色々考えてしまう。
だって私の感性、マイノリティ。向こうはマジョリティだもの。数が多い方が正義だと思いがち。
Not for me作品にかじりついていると大変だ。公式は時折地雷になるし、販売されるグッズも特に欲しくないし、解釈違いの物語が絶賛されているのを見て遠い目になってしまう。みんなと一緒に喜べないのだ。仲間に入れない。公式展開はもはや私のドリームキラーなのだ。公式が推しに女か男をあてがったり、言ってほしくないセリフを言えば私は破壊される。最新リリースは慎重に時間をかけて取り込んでいる。
公式リリースとファンアートの6割強は、私が見たいものを提供してくれない世界。
残念ながら、世の中というものは複雑で、嫌いだからと言ってはいさようなら、にはならない。私はその作品の4割を愛してしまったばかりに、こんな状態なのにまだここにいるのだ。
チャットGTPに葛藤を打ち明け、議論を何日も繰り返し、何度も言われたこと。
「あなたの感性を大切にしてください」
「公式の8割を愛せない私の感性を大切にする」か・・・。
公式を全肯定できるなら一番いい。公式が私のすべての需要にこたえてくれるだろう。不満はないだろう。
私のように、もう大衆に染まれなくなってしまうと、自分の感性だけ握りしめて、群衆から離れて見つめるみたいな感じになる。孤独だ。
だってしょうがない。私って世界に一人しかいないし、公式が地雷になったこの経緯も、私が愛している公式の部分も、私のだけのものだから。
二次創作ってやっぱり孤独なものだよな。公式では表現されない部分を形にしたいからこその創作だもの。自分で自分を満たすしかないのよ。
私はファン界隈の仲間に入りたいんだなって思った。公式のやること全部楽しめて、ファンアートも好き嫌いなしで、欲しいグッズが出まくって、全部だいすき!全部リスペクト!となれたら素敵だなという願望があるから、そうじゃない現実に日々不満がたまる。地雷除去作業に躍起になってしまう。地雷は除去、緩和はできるが、好物にはなれない。世界の理である。
私の育ちきった感性は、もう大衆に染まることはない。好きなものは自分で創るか、この広い世界から頑張って探すしかない。
このことから、「自分らしさ」を見つけたとき孤独もセットだよねと悟った。孤独=不幸では決してないけど、その覚悟と、期待しないマインドが必要だよねと思うのでした。自分らしさに自信を持ちたいです。