二次創作してていっぺん立ち止まる
特に結論のないつぶやき。
非常に今更だが、二次創作をしていてふと思ったのだ。
私はなぜ他人様のキャラをお借りして、改変を加えてまで創作をしなければならないのか。
説明すると、二次創作とは、原作がある漫画・ゲーム・アニメに対して、新しいストーリーを作る行為のことである。絵や小説など手段はたくさんある。
冷静に考えて、おかしい。ここを掘り下げて色々考えてみた。
※ちなみに、ただの個人の感想です。シロクロはっきりつけるつもりとか、一石を投じようとかありません。シロートのたわごとである。
私がやってきたこと
新しい彼を創造し、異なる使命を持たせ、性格改変を行い、動かしてきた。
原作の世界観をベースに、原作で描かれない、ありそうな一面や、恋をする彼が見てみたい、という思いから、小説を書いてきた。
それは、原作の延長線上にありそうな世界を書くこともあるし、絶対にあり得ないことを書くこともある。(こっちの方が多い)
ちなみに、彼が誰かに恋をするなんてことは原作においては絶対にない。あったら寝込む。この点を開拓する限り、私は原作逸脱の創作作家でしかない。原作外れてると言われたらうなずく。
原作の彼と私が描く彼は全くの別人だ。
私の書く二次創作世界は、私が創造した、本家とはまた別人の、新しい人格だと思う。だって私は原作者じゃないから。
その理由などを掘り下げる
なぜそんなことをしなければいけないのか。
そう考えると、自分が気持ち悪くなってきた。普通に考えてそんな必要あるか?その人本人がいるのに、性格を上書きしちゃうんだぞ。失礼じゃないか?私は原作を愛していないのではないか・・・葛藤した。
20代まではそんなことは考えなかった。ただ、お気に入りのものがあるから、「こうだったらいいな」を、無邪気に反映していた。あまりにも強すぎる「好き」が、この考えを見えなくさせていた。
でも今となっては違う。彼が原作で生み出されたかけがえのないキャラクターだという事実とありがたみを噛み締める余裕がでてきたことで、その必要性と己の罪深さが分かるようになってしまった。うーん。
そうはいっても二次創作はやめたくないな
二次創作はやめたくない。そこまで思いつめてもいないし、楽しいことは続けたいから。この罪悪感に対する対処を考え出さなければいけない。
現実に手を加えたくなるのは人類として当たり前だよね
原作=現実だと仮定する。
現実(原作)に対して、自分の好きなように工夫を加える(二次創作)のは、別に人類としてよくある願望だと思う。写真加工もそうだし、コンタクトレンズで視力を補強するのもそうだし、実在の人物の織田信長というお人に対して、「彼がイケメン/美少女/おもしれーヤツだったらいいなぁ」と思うことも、「電車に乗って宇宙を旅できたらいいな」と思うこともある。全部あって当たり前。
「そういうのは現実を冒涜してる」とか言われてもな。そう願ってしまうのは止められないのだ。そうやって人類は進んできた。
とりあえず、「こうだったらいいな」と思うのは、それ自体は恥ずべき願望ではないと思う。
「ありのまま」(原作)ってナニ問題。
原作のキャラに、そのキャラ自身の意思や固定の性格があるという前提で語る。
原作キャラ自身の気持ちや、意思、内面については、原作者と読み手が努力して考えるほかない。
その前提に立つと、自分自身のことも分からなくなるのに、他人(二次元キャラ含む)のありのまま人格なんて、もっと分からないよね。絶対的なコレ!ってないよね、とも思う。人格なんか日々変化することもあるし。
もちろん、原作での描写は神で、原点だ。だけど、それを脚本家や演じる俳優、ファンアート作家がそれぞれ後追いしたとき、その結果は多少バラバラになる。だってその人にキャラに対する解釈って近いようで差が出るから。あとは、誰のためにどんな風に作るか?という状況設定と目的も相まって色々変わってくる。正解って一つじゃないと思う。環境によってバラバラ。
人は、自分の見たい世界しか感じ取れない。それは現実も二次元も同様だと思う。「原作通りじゃない」と思ったとき、では正しさとは何なのか。なぜ正しいと証明できるのか。なぜそうしなければならないのか。いろいろ議論は尽きないかもだけど、結局は好みだよね。とか思ったり。
つまり、原作が神とはいえ、正解は1つではないし、キャラは日々変化するかもしれないし、目指すべきものって曖昧なものだよね。という話。
相手に意志がないから許されてること
「過去と他人は変えられない」という言説がある。いくら「こうだったらいいな」を考えたとして、それが過去/他人だったらそれを強行するのはタブーというものだ。なぜなら、他人には他人の意思と人生があるからである。
だけど、それが意思のないモノや架空の出来事だったら人は容赦なく手を加えることができる。さっきの例も全部そう。対象に拒否権がないから好き勝手を重ねているのだ。もし二次元キャラに魂があって、三次元と会話できて、更に人権が与えられたら我々は二次創作の権利を失うと思う。私は黙って消える。
タブーなこと
とはいえ、「原作者が望まない改変をしていい」ことにはならない。人が悲しむことはやってはいけない。
もし、原作者やそのキャラ本人から、「困るからやめて」と言われたら平謝りする心づもりである。
この点はもう、黙認に甘んじて、恐縮ですがやらせていただいています、生み出してくださってありがとう。としか言えないです。
逆の立場になって考えてみる
逆の立場になってみよう。私がキャラクターになってみる。
私のことを愛してくれる人がいたとする。その人が、「君の顔も声も、内面も大好きだ。だけど、僕は君がペラペラしゃべる陽キャとして活躍する話が見たいんだ。そんな君になってくれる?」と声を掛けてきたとしよう。
反応に困ってしまう。好かれるのは嬉しい。愛してくれるのも分かる。でも、相手が望むのは、違う内面の私なのだ。悪い気はしないが、なんとも複雑な気持ちだ。嬉しいも悲しいもなんとも言えない。
愛しているが、改変を望むということは、私、推しのこと役者だと思ってるのかな?または人形か。自分の望むようなことをやってほしいと望んでいる。
推しは役者。私はオーナー。愛情を対価に好きな演目を演じてもらっているの図に見えてきた。私はその舞台からなにかを得ている。ううむ。
それって、相手に意思がなく、現実に影響を与えられない二次元のキャラクターだから許されていることだよね。生身の意思を持った人に依頼することは絶対にNGという認識はちゃんとある。こういうのは、ぜんぶ、フィクションや、頭の中だから許されていることだ。
もちろん、「二次元と言えど人間扱いすべき」論もある。うん。思想はそれぞれだ。
どうしても叶えたいことがあるんです
なぜ二次創作をするのか。それは、そこでしか叶えられない欲望があるからだ。そのキャラだからこそ表現できる、熱い想いがある。
お腹空いたときに快く食べ物を差し出してくれるのはアンパンマン。例えば私がパン配っても、それが100%善意として受け取ってもらえるか分からない。やっぱりアンパンマンがやった方が、私もしっくりくるしみんなが幸せになれると思う。だから、パンを分け与えるという行為は彼が一番適任!・・・的な感覚。
仮にキャラを借りることを止めて、自分だけのオリジナルを作ったとしよう。きっとイマイチ物足りない。その世界で、そのキャラでしかできないことがあり、それをオリジナルの形に移したところで、まねっこだと自分で思うのが嫌なんだよね。あと、原作への恋慕がある。原作が好き、その延長やIF世界が見たい。原作愛と自分の欲望、そこを切り離すのは難しい。あまりにも楽しすぎる。
あとは、オリジナル作ったところで人に読んでもらえないってのがある(
キャラと設定を借りて自分の想いを表現し、原作に類するものを創り出し、更に人に見てもらえる。旨味があるというわけなのだ。だから、二次創作する身としては、一次創作を成し遂げた原作者に多大な敬意を払わなくてはいけない。
一次創作、やりたくなってきた
もはや、書きたいものがあって、あまりにも原作を逸脱するのなら、二次創作しなくていいのでは。自分が原作者となれる、一次創作をすれば万事解決するんじゃないか。思いもよらぬ方向から創作欲が出てきた。
私が神になりキャラを創造し、好きに動かせば自分からも、誰からも文句言われない。それに私が苦手とするBLも、原作者たる私が「NO!」といえば蹴散らすことができるのだ。ウヘヘヘ。原作者には逆らえない。原作者は神。私が神になって、ルールになれば全部解決する。
その代償として、そこには誰もいないだろうけどね(誰も読まないってこと)
まとめ
「二次創作をするなかで、自分が気持ち悪くなってきた」件についていろいろ考えた。
二次創作したくなっちゃうのは仕方がない。原作と作者は神で、私はそれを愛するあまりにお借りしている。私は、キャラに自分の欲望を演じてもらっているにすぎないということを自覚した。許される範囲で私はこれをさせていただくつもりだ。
一次創作への意欲が高まった。他人のキャラを借りるより、自分で作ったものに、存分に願いを叶えてもらった方が清々しいような気がしてる。何より、原作との乖離が大きいとそう感じる。脱皮してもいいのではないか。
脱皮しきれるか不安だが。私はまだ、推しの虜であるし。
全然計画とかないけど、一次創作、いつの日かできたらいいなと思いました。まる。
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