見出し画像

嫉妬から始まった、アルビノの私の戦略立案

昔の記憶はあやふやだ。二十数年しか生きていないのに、思い出せないことばかりだ。

矛盾するようだが、記憶力はいい方だ。これまでに読んだ本のことをしっかり思い出せる。

文字や数字の記憶が得意で、そのときの感情や他人の様子みたいな文字に起こしにくいものには興味を抱きにくいし、記憶するのも難しいという、私の認知特性がすべての答えだ。

さらに言えば、子どもの頃の記憶のほとんどを、読んだ本の内容が占めている。読書家だったし、その当時の私の世界を彩るのは書物であり、そこに描かれるフィクションだったからだ。

結果として、私は当時の同級生に会っても気づかないが、当時読んだ本のことならすらすらと答えられる、アンバランスな人間に育った。

そんな私でも、強烈に覚えている感情がある。幼少期からずっと周囲の人間に抱いている、嫉妬の感情だ。

私は、生まれてすぐ、アルビノと診断された。医学的には眼皮膚白皮症。私が成人するかしないかの頃に、国の指定難病になった。

アルビノは人によって症状の出方がかなり異なる遺伝疾患なので、これから書く症状は私の話でしかないことを留意してほしい。

パッと目を引く特徴は、やはりその見た目だ。肌は白く、瞳の色も薄い。生まれた当時の写真を見ると、髪の毛はまぎれもなく、金髪だ。

そして、視機能の問題だ。眩しさに弱く、眼球が不随意に揺れ、視力も0.1程度。幼い頃から、眼鏡やサングラスをかけて過ごしていた。

さらには、日焼けの問題もある。日焼けのダメージを体内で処理できないため、アルビノでない人々よりもずっと日焼けに注意しなくてはならない。

このため、おしゃれに目覚めるより早く、私は日焼け止めを塗っていた。日焼け止めはおしゃれアイテムではなく、文字通りの命綱だった。

日焼け対策に失敗すれば、熱を持ち火傷のようになって、皮膚科に駆けこむ羽目になる。二、三度経験しているが、いい思い出ではない。

保育園から大学に至るまで、私は健常児・者とともに過ごしてきた。否応なく自分にはできなくて、周りにはできることを意識させられた。

周りの人間に嫉妬するのも、ある意味当然の流れだった。

私は飛んでくるボールを見つけるのが遅れる。
周りは私より先に見えている。

屋外での活動時、私は日焼け止めやサングラスをして、肌の露出を減らさないといけない。
周りは、日焼けしたら「焼けちゃったよ」ですむ人ばかり。

黒板の文字を見るのも、私は大変だった。
周りの人が、黒板の字を見ることに苦労することは、ない。

挙げていけばきりがないほどの差異があった。在籍した教育機関が配慮をしてくれなかったわけではなく、むしろ気遣われていた。それでも、多くの差異が、できないことがあった。

そして、私はそれらを見つけ、数え上げ、嫉妬の炎を燃やした。許せない、という言葉が最も当時の感情に近いだろう。

私が望んでも手に入らないものを持っている周囲を敵視していた。そのせいもあってか、周囲との関係は良好ではなかった。

いじめに遭ったかといえば、そうではない。私は、他人に攻撃されて、黙っているような性分ではなく、あらゆる手立てを使って、己の安全を確保する人間だ。

中学卒業までの私は、教室において、不用意にふれるべきではない人間、関わるべきではない人間だった。そして、私もそれをよしとした。

私が望んだのは、周囲と仲良くなることではなく、何もされないことだったから。いじめや嫌がらせを受けないが、友人とも思われていない。その状況は、まさに望み通りだった。

そうして大人になった私は、ライターとしてアルビノをはじめとしたマイノリティに関する執筆業務をしている。

最近、仕事で耳にする機会が増えた、フルインクルーシブ教育なる言葉にふれる度に、自身の学生時代、特に中学校までを思い返している。

断っておくが、当時の自分を糾弾するつもりは微塵もない。周囲を敵視し、多少勉強ができることのみを武器に、懸命に生きていた当時の自分を、正しくはなくとも、私は肯定する。

その上で、私が受けてきたものはフルインクルーシブ教育などではないと結論した。

たしかに私は同じ場にいた。同じ授業を受け、同じように卒業した。だが、私と過ごした人々にインクルージョンの発想が根づいたとは到底思えない。

私も、私と過ごした人々も、互いのことを「異質」と思っていたことは想像に難くない。完全に敵対したわけではないけれど、歩み寄ることもなかった。

このようなものを、フルインクルーシブ教育とは呼べない。

でも、視覚特別支援学校に通いたかったかと言われると、それもまた違う。最高のスクールライフではないが、社会に出て戦っていくにあたり、必要な経験を積めたと考えている。

視覚障害者の社会、アルビノの社会、というものはない。教育段階で分けられていても、いずれは健常者が多くを占める社会でビジネスパーソンとしてやっていく必要に迫られる。

どう虚飾で飾り立てても、私の中学までの学校生活は、楽しくなかった。青春を描いた小説として考えると、始めから終わりまでアンハッピーで、私は読書と勉強をしているときしか楽しそうではない主人公になるだろう。

だが、私はそんなアンハッピーな時間をデータとして蓄積し、自身の戦略に役立てた。幸いにも、比較対象なら大勢いた。

私が他人より苦労せずにできることは何か。
どうやっても私ができないことは何か。
私のできることは、何をどうすれば価値が高まるか。

そんな思考を巡らせるのに、社会そのもの、あるいはそれよりも高い割合で健常者がいる環境は有益だった。

そうして考えて、動いて、今の私がある。

嫉妬や敵視というと、ネガティブなイメージで取られかねない。だが、嫉妬して立ち止まるだけが嫉妬の効果ではない。

嫉妬したことが、自分が持っていなくて相手にあるもの、またはその逆を分析するきっかけになりさえする。

その分析は、思考は、必ず武器になる。私がそうして自分を生かす武器を手にしたように。

執筆のための資料代にさせていただきます。