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Case.1 雁屋優~崖から飛び降りるようにしてフリーランスになった~【後編】
前編はこちら。
「書きたい」と思いながら再び就職活動
休職期間の終了が迫ってきた、2019年1月。ある夜、唐突に「雁屋優」の筆名でTwitterとnoteのアカウントを作成した。
その頃、アルビノは「見た目問題」の一つとして捉えられることが多く、弱視を伴った場合の困難についての話は少ないと感じていた。だから私が自分で納得のいく発信をしよう、と思った。
発信する手段として文章を選んだこと、筆名かつ顔を出さないこと、そのすべてに、私なりの根拠があった。元々小説を書き続けていて、ある程度評価されてもいた。それに、文章を書くと、疲れはするものの、充実感を伴うのだ。
「書くこと」で生きていこう。何をどうしたらそれが実現できるかわからなかったけど、行き先は決まった。
そう決めたからと言って、すぐに書く仕事ができるわけもなく、私はまた生活のために就職活動を始めた。第二新卒として、障害を明かして、大手のエージェントを何社か頼った上でのことだった。
あるエージェントの担当者は、「国立大卒なんで、すぐ決まりますよ」と朗らかに言った。たしかに書類の通過率はいい。適性検査やWebテストは通った。それでも、面接で落とされた。
なぜ落ちるのかわからないので、疲労だけが溜まり、精神的にも不安定になった。今思えば、応募先に対して何の興味もないのに関心があるふりをしていることや、自身の特性への理解が十分でないことが、採用担当者達に見抜かれていたのかもしれない。
生活のためと割り切って仕事をすることは悪ではない。しかし、そこでの仕事に興味もなく、かと言ってやる気もなく、ただ食いつなぐためだけに応募するのは、相手のリソースを奪う行為だったと思う。追い詰められていたとはいえ、失礼なことをした。
そんなとき、ある小さな会社の採用担当者が、エージェント経由で、不採用の理由を送ってきた。そこの面接は手ごたえがあったから、不採用は衝撃的だった。しかし、不採用の理由を読んで、納得してしまった。
適性検査の結果は非常によく、申し分ないのですが、あなたにこの仕事が向いているようには思えません。あなたの強みを生かせる仕事は他にあると思います。
何かが腑に落ちた。今しているのは、”無駄な努力”ってやつだ。極端に向いてないことをやろうと、必死になっている。
転職活動をやめた。その直前に意味不明な理屈でアルビノだからと差別されたことも関係はあるけど、一番はこの不採用理由だ。エージェントに伝える不採用理由で、こんなに正直に書かれてしまったのだ。
当たり障りなく、「他候補者との比較」などと書いてくる数多の応募先のなかで、その会社だけが、本音を多めに入れた不採用理由を書いてくれた気がした。
配慮のある転職先
2019年の夏から、書いて報酬を得るようになっていたけれど、暮らしていける金額ではなかった。そうこうしているうちに一人暮らしが立ち行かなくなり、実家で療養することになった。
私にとって、実家は地獄だった。両親との関係は、子どもの頃からよくなかった。いくら説明しても、特性や症状を理解せず、自分達の理想を押しつけてくるので、療養にはならなかった。
そんななかでも、細々と書き起こしや記事執筆を行い、着実に書いていった。もう自分はこれしかない。書くことは、救いだった。書き起こしで、知らない世界を知るのは興味深く、楽しかった。
ただ、圧倒的にお金が足りない。実家を出たくて仕方なかったが、自分にできそうな仕事なんてないように思えた。そんな折、運良く、行政機関が非正規雇用の枠で募集をかけていた。
前回までの就労経験を踏まえて、自分のわかっている限りの特性や症状、できること/できないことを面接で共有した。その上で採用してくれるところでないと、自分には耐えられないと理解していたから。
「こんなにたくさん配慮を求めたら、絶対落とされるだろう」と思った。しかし、どういうわけか採用され、働くことができた。後々知るのだが、障害を開示しての就労(オープン就労)では、障害理解ができている人ほど採用されやすいのだとか。
どうしてほしいのか、聞けばちゃんと答えが返ってくるだけでなく、聞かれなくても、きちんと必要な配慮を言葉や文章にできる人ならば、それができていない人よりも、一緒に仕事しやすいということみたいだ。
規則のなかで、できうる限りの配慮をしてもらえたし、そこでは最年少だったこともあって、大切にされていた。気遣われていた。給湯室でポットにお湯を入れようとしたら、なぜか不安がられて、「危ないからやめようか」と言われた。
私は自分を「(弱視にしては)見えている方」と思っていたが、周囲には、「(晴眼者と比べて)見えていない」と思われていた。
ルーティンの仕事が多く、指示も明確で、配慮を求めれば応じてくれる。指示を具体的に確認する私を煩わしく思うのではなく、「わからないことはきちんと聞いてくれるから、安心して仕事を任せられる」と評価してくれる。非正規雇用の枠で働き続けるなら、理想郷のような職場だった。私は大事にされていた。
先を見据えて、退職を決意
大事にされ、仕事ぶりも評価されていたけれど、私は仕事を好きになれなかった。ルーティンが多く、明確な指示のもと行う仕事はやりやすくはあるし、嫌いではない。少なくとも苦痛ではない。しかし、書く仕事ほどの充実感を得られないのも、また事実だった。
そうは言っても、書く仕事ではまだ生活していけない。どうしたものか、と頭を悩ませているときに、「正規雇用の採用があるから挑戦しないか」と誘われた。評価されているからこその、ステップアップの誘いに、私は言葉を濁していた。
正規雇用の人達のする働き方が、自分にできるとは思えなかったのだ。一日8時間働いて、さらに残業。いくら配慮されても、気遣われても、私にはできない。
さらに、その少し前に、人の気配が自分に強いストレスを与えていることも判明していた。聴覚過敏の特性かと思って、ノイズキャンセリングイヤホンを使ったが、人が同じ空間に存在するだけで、集中力が途切れた。
出勤して、誰かと同じ空間で、長時間働くスタイルでは、私はパフォーマンスを上げるどころではない。フルリモートで、ライターとして書く仕事をするしか、生きる道はないと思った。
何とか通えていた行政機関での非正規雇用も、通えなくなるのは時間の問題だった。一度くらいは笑顔で見送られて退職してみたかったし、申請中の障害年金が支給決定になればどうにか生活できる程度の収入のあてはあったので、退職を決めた。
崖から飛び降りるかのごとく
決断に明確な根拠があるような書き方をしてしまったが、正直なところ、この退職、そしてフリーランス(個人事業主)としてのスタートは賭けだった。
そもそも、障害年金が不支給になれば、破綻する。仕事が少しでも途切れれば、終わる。フリーランスになるなら、半年は無収入でも暮らせるくらいの貯金がいるらしい。そんなもの、2020年11月当時の私にはなかった。
だが、今から考えてもあの退職は自分の取れるなかで最善の選択だったと思う。あれ以上続けていれば、また精神的に不安定になり、身動きが取れなくなっていただろう。そうなれば、また回復に時間を要する。
当時のことを振り返って、「崖から飛び降りるみたいなことをした」と言うことがある。それでも、私はこの選択を微塵も後悔していない。
自分が心身ともに安らげる環境で働き、生きていくためには、それしかなかったのだ。
幸いにも、現在に至るまで仕事の幅が広がり続けている。記事執筆のために多くのことを知り、それを自分の文章で伝えるこの仕事をしていて、苦労もあるけれど、たしかな手ごたえと充実を感じられる。
「ふつう」の労働にはフィットしなかったけれど、今現在の自分を誇りに思えるから、この選択は、間違いではなかった。
しかし、私が労働からある種の排除を受けたことは、間違いない事実である。そのことも、併せて記しておく。これは、決して単純なハッピーエンドにはなりえない話だ。
(2022年9月11日加筆修正)
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