残念だった
残念だった
ある著名な方が、批評されたことに対して、けなされたと感じ、SNS上で猛烈に反応している文言が、到底好まれる言葉、文字ではありませんでした。
その言葉を使うことこそが、立場を悪くしてしまい、あらゆる他者との分断の始まりになってしまうかもしれない。
築いてきたものが、発表した結果だけだと見ると、
信頼関係は無用に見えるかもしれない。ネット社会ーこの場合の不都合ーでは、他者は、自分に好意を寄せる人間だけではないのは、事実かもしれない。思っているよりも、もうちょっと広い他者が存在していて、それは社会という他者で、私はそれが民意、世相なのかと思います。
辛いときに、人はパラノイアになって、自分を必死に守るのだと思います。
自分の行為が否定されたとき、その他者を拒絶し、要塞の言葉を用いて孤独のようになることで、必死に自分を守っているのだと思います。
でも、もしかしたら、何か違う方法があるかもしれません。
要塞の言葉ではなくて、何か違う方法が、あるかもしれません。
守るとき、もしも相手と対話を展開したとき、新しい他者との人間的世界が生まれるチャンスかもしれません。資本社会においては、即時的な生産性は無い、一見非合理的な世界かもしれません。
しかし、相手と対話を展開することは、問題となった出来事の解決に留まらず、人間性や社会性の視野という、別のものを、深め広げるきっかけになるのではないかと、思いました。
また、
そのことを客観的に見た、別の著名な方が、『成果を出しているからいい。無能だったら、面倒くさいな。』と話していた。
無能な人は、黙るのが良い。ということを暗に指しているのかなと、私は強く残念に思いました。(今の自分に当てはまり過ぎるからだと、思います)
もしくは、究極のポジティブシンキングで、無能な人など、この世にはいない、だから、面倒な人はいないという裏返しか………
大事なことは、汚い言葉で、語ることに、成果の有り無しは、全く関係ないのではないだろうか?ということだ
なぜ、無能な人は面倒で、有能な人は、そうではないのだろうか?
人の上に人は、成り立つものなのだろうか__________
人間と動物の違いは、無かったのだろうか__________