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ほーら。言われてんの。

この件については、私も普段からイライラしてしまうほど、思い切り怒りたい気持ちです。
具体的には、日常生活の中(通勤中)にこの問題が繰り返し発生し、そのたびにストレスを感じています。周囲の人々や状況に対して不満が募り、時には自分の感情を抑えるのが難しくなるくらい頻繁している。
いつも、心の中で怒りがいつか爆発してしまうのではないかと不安だ。

そうそう、そうだよ!ロドリゴw

私の長年の疑問を、来日したばかりのポルトガル人がすっきりと表現してくれた。ありがとう。
(それにしてもかっこいい😎)

確かに、彼の国や多くの国では防犯の観点が影響しているかもしれない。それを考えると、日本人は防犯意識が薄すぎるのではないかと思う。(これはまた別で記事にできるかもしれない。)


前見て歩けよ!あぶねーな!


このセリフは、以前私が最寄り駅の近くでスマホを見ながら歩いていたカップルの女性に対して言ったものです。

その時、私は駅前の小さな信号を渡りながら帰宅していたのですが、反対側から歩いてきたカップルがスマホを見ながら歩いていました。男性の方はすれ違う直前に顔を上げて前を確認したので良かったのですが

女性の方はそれに甘えて、スマホをいじりながら男性に話しかけ続けていて、まるで「お前らがどけよ」と言わんばかりに突進してきました。

日々、こうした日本人クズたちを避け続けていた私の我慢も限界に達し、結果的にこのようなセリフが爆誕。
要するに、このセリフには「お前らのためにこれ以上気を使うつもりはない!クズ」という意味が込められています。

私は前方を彼らに塞がれ、左右と後ろには同じ方向に進む人々に囲まれて、全く動けない状態だった。その時、女性は「はぁ⁉︎痛い」とか何とか言っていたが、そんなことはどうでもよかった。

そもそも、ながら歩きをしていること自体が歩くことの前提として問題がある。


歩くとは

歩くという行為は、通常、前方や周囲を確認しながら行われるものであり、視界が不明瞭な状態で歩く人はいない。
いたら怖い。
もし知り合いにそんな人がいるのなら是非とも事例として教えていただきたい。

視覚に障害がある人でも、白杖や介助者、あるいは他の感覚を駆使して移動しています。(耳だったり、人の気配?とか?)
それらを全く使わずに歩けるのであれば、それはもはや人間の範疇を超えた存在と言えるでしょう。

人間は、視覚情報(だけじゃないにしても)を基に行動する生き物であり、他の感覚を駆使しても、視覚の役割を完全に代替することは難しい。
このような存在は、通常の人間の枠を超えた特異な能力を持つ存在として認識されるでしょう。したがって、歩行という行為は、視覚的な情報に依存することが多く、視覚に障害がある場合でも、他の手段を用いて安全に移動することが求められます。

しかし、このようなことを真剣に考えることもできない人たちが、超人的な存在であるはずがありません。彼らは自己過信が非常に強い、ただの無価値な存在に過ぎないでしょう。


それでもなお、なぜ彼らは不注意を起こし続けるのだろうか


なぜ、そんな人たちのために何度も私が気力や体力を使わなければならないのか、もう理解できない。私だって日々自分の生活で精一杯である。自分の生活や仕事に集中したいと思っているのに、他人の不注意や無関心のせいで、私がその負担を背負わなければならないのは本当に理不尽だ。

もしぶつかったり、痛い思いをするのが嫌なら、自分でしっかりと注意を払って歩けばいい。周囲の状況を把握し、自分の行動に責任を持つことは、社会の一員としての基本的なマナーだと思う。
子供のように周囲に気を配る能力がないわけではないはずだ。
大人になった今、彼らは自分の行動が他人にどのような影響を与えるかを理解する責任がある。

それとも、成長する過程でその能力が育まれなかったのだろうか。
教育や家庭環境、社会的な経験が影響しているのかもしれない。周囲に対する配慮や思いやりを学ぶ機会がなかったか、
あるいはそれを軽視してしまったか。どう考えても後者としか思えないが。

それでも私がその負担を強いられる理由にはならない。
私もまた、他人に気を使いながら生活している。
でも、世の中で生きていくってそういう事じゃない?
外国はどうか知らないが、私は子どもの頃に周りの大人からそう教えられてきたのでこのような事態は最もの疑問。
せめて自分の行動には責任を持ってほしい。




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