【林田と一緒に三国志(4)】新たな時代の礎となった男・司馬懿
どうも。林田です。
今回は【林田と一緒に三国志シリーズ】第四弾です。
張遼、呂蒙、曹操と続いて、今回は司馬懿にクローズアップしていこうと思います。
では、スタート!
▼前回(第三弾)・曹操はこちら
名門・司馬一族に生まれ、曹魏に仕える
司馬懿は、皇帝側近職などの高官を数多く輩出している名門・司馬一族の子に生まれます。
司馬懿には兄が1人、弟が6人いましたが、司馬懿含めた8兄弟全員が非常に優秀だったため、「司馬八達」と称されていました。
帝を保護した曹操に出仕するように求められ、何度か断りはしたものの、最終的に曹操の下に出仕し、以後、曹操の息子で、後に初代魏帝となる曹丕の配下となります。
その後は曹丕の下で謙虚に職務に励んだために、主君・曹丕から絶大な信頼を勝ち得ることが出来ました。
曹操は、あまりに優秀な司馬懿を非常に警戒していたと言われておりますが、曹丕は何かと司馬懿を庇っていたそうです。
曹操勢力が魏王朝となる前の司馬懿は曹丕の下で事務職に就いていたからか、あまり三国時代の戦場での出来事に関与していませんでした。
しかし、曹操が病でこの世を去り、曹丕が後漢王朝を滅ぼし魏王朝を興してから、司馬懿は徐々に表舞台で活躍していくこととなります。
諸葛孔明率いる蜀漢との戦い
初代魏帝・曹丕の時代は、曹丕の右腕として後方支援に従事していましたが、曹丕が魏王朝を興してから僅か6年後、曹丕は父と同じく病に倒れ、そのまま帰らぬ人となってしまいました。
曹丕は死の間際、後継に長男・曹叡を選び、司馬懿は曹一族の重鎮・曹真、曹休らと共に曹叡の補佐を託されます。
曹叡
第二代魏帝。初代魏帝・曹丕と正室・甄姫の子。
母である甄姫が曹丕に殺されていたことから中央から遠ざけられていたが、曹丕が危篤になると皇太子となり、曹丕の死後、第二代魏帝に即位する。
呉・蜀漢との侵攻を幾度と喰い止めたが、晩年には宮殿作りや女遊びにうつつを抜かすようになり、魏王朝の情勢は傾き始めたという。
曹叡の時代になって直後、呉は魏領に侵攻してきます。
司馬懿は曹操時代からの将・徐晃らと共に呉軍を撃退し、その功績で曹真・曹休の次に偉い将軍になります。
この呉軍との戦いの後、対蜀漢の総大将・曹真が死亡したことから、その後任として諸葛亮率いる蜀漢軍との戦地に赴くこととなりました。
諸葛亮
蜀漢王朝の丞相(丞相は今でいう総理大臣のような職位で、曹操も後漢時代にこの職位に就いていた)。
劉備の三回に渡る説得の末、劉備配下の軍師となる(この出来事は「三顧の礼」として有名)。
また、劉備に対して曹魏・孫呉・そして劉備が治める蜀による「天下三分の計」を唱え、後に、実際に中国大陸はその通りの様相となった。
蜀の地を手に入れ、劉備が蜀漢王朝を興してからも劉備の右腕として活躍。
劉備が死亡し、劉備の息子・劉禅が第二代蜀漢帝になると、劉備の悲願である漢王朝の再興を目的に、魏王朝に対する征討を決行。
魏軍と一進一退の攻防を繰り広げるが、軍事・内政すべてを任されていた為に過労で病となり、五丈原という地で魏軍との戦いの最中、陣没した。
蜀漢軍との戦いは一進一退の攻防が続き、最終的に、諸葛亮率いる蜀漢軍とは、五丈原と呼ばれる地で対陣することとなります。
この五丈原の戦いで、司馬懿率いる魏軍は持久戦を続け、諸葛亮は過労の末に病気となり、ついに稀代の天才であった諸葛亮は陣没してしまいます。
蜀漢軍は徐々に撤退を始め、司馬懿はこのタイミングを好機と思い、撤退する蜀漢軍を追撃します。
しかし、蜀漢軍は唐突に撤退をやめて、魏軍に対して再度攻撃を開始しました。
この蜀漢軍の動きに司馬懿は焦り、何かの策略と勘違いし、恐れをなして魏軍は撤退してしまいます。
この一連の司馬懿の動きは、蜀漢軍を征討する決定的なチャンスをみすみす逃す結果となってしまい、「死せる孔明、生ける仲達を走らす」という故事成語として後世に語り継がれてしまうことになりました。
諸葛亮が死んでから、司馬懿は蜀漢軍との戦いから離れ、魏王朝内の権力闘争の渦中に身を委ねることとなるのです。
司馬一族、曹魏の実権を掌握する
諸葛亮の死後、司馬懿は曹叡から、魏王朝に反逆した遼東の公孫淵の征討軍の総司令に任命され、見事、司馬懿は公孫淵軍の討伐に成功します。
公孫淵
遼東と呼ばれる地域の太守(長官)。
呉とも外交をし、巧みな手腕で徐々に独立の姿勢を強めていった。
曹叡の出頭命令を拒否し、魏の将軍・毌丘倹率いる軍に対し迎撃して、毌丘倹らを打ち破った。
これを機に燕という国を打ち立て、燕王を自称し、独立した。
しかし、司馬懿率いる討伐軍により燕軍は敗走し、和睦という形で事を収めようとしたが、司馬懿に和睦を拒否され処刑された。
司馬懿が遼東から帰還していた最中、曹叡は病で倒れ、急いで司馬懿は曹叡の元へ向かいます。
死の間際、曹叡は、司馬懿、そしてかつての魏の大将軍・曹真の息子の曹爽の2人に、魏王朝の後事と、次代皇帝となる曹芳の補佐を託しました。
曹叡が崩御すると、曹芳は第三代魏帝に即位し、司馬懿は曹爽の策略で名誉職に追いやられ、曹爽は段々と権力を手中に収めていきます。
当初は曹爽が司馬懿を敬っているように接していた為に大きな混乱は起きていませんでしたが、徐々に不遜な態度が目立ち始め、司馬懿は身の危険を感じて家に篭るようになりました。
ですが曹爽も、引退したとはいえ魏王朝の重鎮として数多くの戦線で戦い抜いた司馬懿に対して警戒を怠ることはありませんでした。
司馬懿のこれまでの実績に対して、曹真の息子という家柄でのし上がった曹爽の実績は僅かなものでした。
曹爽一派は功績を作るべく、軍を動かして呉軍、蜀漢軍との戦いに繰り出していきますが、目立った功績を残すどころか敗戦続きとなってしまい、魏王朝は疲弊し、政治が乱れ始めてしまいます。
この頃、曹爽配下の李勝という人物が、曹爽の指示で司馬懿邸に赴き、司馬懿の様子を探ろうとします。
これを好機と思った司馬懿は、李勝の前で芝居を打って(ギャグではなく、本当に司馬懿[しばい]が芝居[しばい]をしたのです)、薬を口からボドボド落としたり、よだれを垂らして老衰している様子を見せたり、何度も李勝の発言を聞き返したりと、曹爽一派を油断させることに成功しました。
曹爽は、司馬懿に対して警戒を緩めたことで、首都・洛陽を離れ、曹芳と共に先帝・曹叡のお墓参りに行くことを決断します。
曹爽らが洛陽を留守にすると、司馬懿ら司馬一族はクーデターを起こし、太后に曹爽一派を解任するように上奏し、太后から曹爽一派を解任する許可を司馬懿に出しました。
こうして帝族の詔を手に司馬懿は軍を動かし、曹爽一派を追い詰めようとします。
しかし、曹爽は「贅沢な生活が保障されるなら、司馬懿に降っても良いか」と浅はかに考えて、すぐさま司馬懿に投降しました。
曹爽らは当初は軟禁状態で済んでいましたが、曹爽配下の人物が曹爽が司馬一族に対して反旗を翻そうとしていたと自白したことで曹爽も主犯格として投獄され、司馬懿によって処刑されました。
これにより、司馬懿を筆頭とした司馬一族は魏王朝の権力を手中に収めることとなりました。
司馬懿の孫・司馬炎、西晋王朝を興して三国統一
司馬懿は曹爽一派の処刑から2年後に、病気を患い、ついに72歳で人生に幕を下ろします。
司馬懿の死後、司馬懿の息子次男・司馬昭が蜀漢を平定し、第五代魏帝・曹奐に晋王に任命されます。
司馬昭が死亡すると、息子長男・司馬炎が晋王の位を継ぎ、曹奐に禅譲を迫ります。
曹奐はついに帝の位を司馬炎に譲り、ここに魏王朝は滅び、司馬炎を帝とした、西晋王朝が興されることとなりました。
そして、西晋王朝成立から15年後、西晋軍は呉軍を打ち破り、呉の領土を平定したことで、ついに魏・呉・蜀漢の三国は西晋帝・司馬炎の下に統一され、混迷の三国時代は終わりを告げたのです。
司馬懿から学ぶ、今にも通ずること
ここまで司馬懿について説明してきました。
皆さんはこの司馬懿という人物についてどう思いましたか?
僕は「時代の流れを読める人物」だと思います。
当初は曹操、曹丕といった有能な人物の下で謙虚に仕事に従事して信頼と実績を積み、曹叡、曹芳の時代で王朝が乱れると、時代の流れを読みきって自ら先頭に立ち、絶大な力を手にしました。
時代を見極めて自分のパフォーマンスを最大限発揮した司馬懿の生き様は、今の時代でも通ずる、クリエイターとしては必要な考え方に転化できるのではないかなと感じます。
ちなみに、僕のシナリオライターとしてのペンネーム、「三船 仲達」の名前は、司馬懿の字・仲達から借用しています。
字
「あざな」と読む。
昔の中国の名前の要素で、姓名の他に名乗れるもの。簡単にいうと名の別名。
基本的に目上の人に対して名を呼ぶことが失礼にあたる文化だったために、それを回避するために用いられた。
字は本人や両親、上司が命名でき、本人が字を変更することなども可能だったという。
諸葛亮を例に挙げると、「諸葛」が姓、「亮」が名、「孔明」が字となる。
基本的に姓+字で呼称され、諸葛亮孔明といったように姓名+字で呼ばれることはない。
諸葛亮が、よく名の「亮」を省かれて「諸葛孔明」と呼ばれるのはこのためである。
ちなみに、今回取り上げた司馬懿の字は「仲達」である。
今後も僕が今の時代でも通ずる功績や事績を残した三国志の人物を紹介できればと思いますので、三国志が好きな方やこのような歴史の事柄を現代に転化した内容の記事に興味を持った方は、是非フォローしてみてください!(Youtubeでよくある「チャンネル登録とグッドボタンよろしくお願いします!」みたいなノリ)