自分の根底にあるもの
子どものとき、自分は発達障害なのではないだろうか?と何度も思ったことがある。
そのときは疑っていると思っていたが、今思えばそうだったらいいのに…と思っていたように思う。
周りが気づかないようなささいなことに気づいてしまう。
相手がまだ発していないのに次に言うことがわかり、実際に当たる。
勉強が嫌いな人が多い中、自分は勉強が好きで苦というよりは趣味のようになっていた。
勉強に関しては今は仕事につながっているので結果オーライだし、ただの知識欲の塊なんだと思っているので自分の中では良しとなっている。
最近出てきた繊細さんは自分に当てはまることがあるので、そうなのだろうと思う。
取捨選択することなく、全ての音・物が入り込んできて頭の中で一瞬そのことに考えを巡らせて過ぎ去っていく。
最近はあえて反応しないことが多い。(他人の独り言はかまってられない)
完璧主義もそれが原因で、自分が優秀なだけなのか…とあえて自己を上げるように解釈している。
だからか、頭が回りすぎて落ち着かないし、先のことを考えすぎて寝れないことも多い。
今の生活上、気軽に話をできる相手もいないので実家に帰る頻度がかなり上がった。
まあ今は自己との対話期間であるから、彼氏もできないし、友達とも距離があるのだろうと思う。
私は勉強ができたせいで優等生の立ち位置にいた。
性格として目立ちたい、人の上に立ちたいという欲はあったと思うが、よく想像するような男子を注意する小学生女子だった。
勉強ができ要領もよくリーダーシップがある。
周りの大人は褒めに褒めてくれた。
ただ…私の記憶の中では褒めてくれた内容は”私”ではなく、”どれだけの成果を出したか”だったように思う。
確かに勉強がメインになってしまう学生時代は仕方ない。
自分も勉強が好きだったし、点数もよかった。
しかし、何か行事のリーダーのようなことをしても成果を褒められた記憶しかない…
自分の長所は何か…は正直今の自分でもわからない。
今の生活になって少しずつ改善はしてきたけど、ずっと心の中で「自分は悲劇のヒロインになれたらいいのに…」と思っていた。
そうすればみんなが心配して駆け寄ってきてくれる。
みんなが注目してくれる。
みんなが声をかけてくれる…
できる私は心配されないし、大丈夫だろうと放置されるのである。
大人になり、今は子ども相手の仕事をしているのでそうなることはよくわかる。
できない子ほど手がかかるから、時間を割かないといけないのだ。
しかし、勉強ができるとはいえ心までが成熟しているのは間違いだ。
きっと私がいないところで褒めていたと思う。噂していたと思う。
けど、私自身はその愛をもらった記憶がない。
そう、両親からも自分に対して褒められた記憶が実はあまりない。
元々愛情表現が少ない親だし、自分が感じてないだけでしているのかもしれない。
けど、愛されたなあ…という気持ちが空っぽなのである。
家族仲が悪いわけではない。よく実家には帰るし、旅行にだってたくさん行った。普段から話もたくさんするし、心配してくれてるのもよくわかる。
ただ私自身の記憶の中にないだけなのだ。
本当はもっと大好きだよ!とか言ってほしいし、もっと親の本音を聞きたかったなあと思う。
もっと自分を出してくれていいのになあ…と特に母に対しては思う。
最近になってようやく母の本音を聞くことが多くなった。
これから少しずつ聞けるようになってもっと本当に母や父を見ることができるのかもしれない。
私は、自分のことを自分で見つめていこうとしている。
目標にしか目がなく、他人ばかりに目がいって自分の感情や自分の意思にあまり目を向けたことがなかった。
勉強で忙しすぎたのだ。
社会人になってからも転職を延々繰り返してようやく今の職で落ち着いた。
まだ変えるつもりもない。仕事も慣れてきた。
ようやく自分に目を向けれるときが来た。
何をすればいいか正直わからない。けど、コロナでちょうど他人との距離も離れた。
これはまさに自分に対して目を向けなさい。自分と対話しなさいと言われているような気がする。
何をすればいいかわからない。けど、自分が好きなものに一直線になろうとしている。
自分の好きなものをメモるようにしている。
自分の気分が上がる物を置くようになった。
正直、不安でしかない。
変わりたいけど、変わりたくもないような。
でも変わらないと!というか変わりたい。
悲劇のヒロインもやってみたかった。
けど悲劇のヒロインは疲れるだろうな…飽きるだろうなと思っている。
だから自分をピンと立たせられるように、自分の足で直立できるように、日々過ごしていきたい。
p.s. ふと思った今日からセルフハグをしようかしら?
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