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Language Journal #4 | 基準を上げる

こんにちは、Yu です。
今日は英語の指導をしているときに目指していることのひとつをまとめてみます。



例え話から入ります

今日掃除をしていたら大学生の時に買ったミラーレスカメラを見つけました。Sony α5000 という機種。コンパクトでピンクで美しく、お気に入りのカメラでした。

今使っているフルサイズの Sony α7CII と比べるとはるかに小さい。ひとまわりもふたまわりも違う!とニヤッとしてしまいました。

ただその時にびりっと思い出したのが「あれ、大学生で使ってた時は大きくて使いづらいな〜ってちょっと悩んでなかったっけ?」

そうだった。あの時のは重いし大きいしレンズもでかいしで、期待していたほど使っていなかった。ところが今はとっても小さい。おもちゃかと感じてしまうくらいに。


その理由が今日まとめる「基準」のお話。

小さい頃から写真に興味があって、小学生くらいから父親のカメラを借りたり、高学年くらいにはお年玉で自分のカメラを買っていた。ただ父親が持っていたのは一眼レフやミラーレスのような高めのカメラではなく、あくまでコンパクトで小さなデジタルカメラ。

だから私も、ずっと小さなデジカメを持っていた。ここで私の中の「カメラの基準」が出来上がっているんですよね。

単に物理的に小さいかどうかっている話ではなく、もう私にとってのカメラという存在はポケットにも入るし、とても軽くて小さいもの。ずっと手に持っていても、常に首から下げていても苦にならないもの。これが当時の私の「カメラ」の基準。


そんな基準を持った状態で手に入れたミラーレスカメラはとっても重い。はるかに重い。基準から飛び抜けて重い。ポケットに入るわけはなく、首から下げても邪魔だし、扱いも大変。

だから無意識にあまり使ってこなかったんだなって、今なら納得できる。


ところが大学院に行って、その後仕事を始めて、その間はカメラというものにあまり触れていなかった。iPhone のカメラも性能が良かったし。

そして少ししてまたミラーレスカメラを買った。Sony α6400。これも小さい方だけど、Sony α5000 に比べるとひとまわり大きい。ただあまり大きいとは感じなかった。

多分これは、カメラを使わなかった期間があったから一旦基準がリセットされたため。カメラ屋でいろんなミラーレスを見て、触れて、考えて、そこで今の基準が再度設定された。

だから今の「基準」を持った状態で昔のカメラを触ると劇的に小さく感じた。カメラの大きさも、私の手のサイズも何も変わっていない。

不思議だな〜


英語学習では

ここまではさっき頭で考えていたことで、これは普段英語学習・指導で意識していることとかなり似ているなと思ったので今この記事を書いています。

まず私自身が英語学習において (自分の中では) 成功しているな〜と感じている1番の理由は、この「基準」がいい意味で高かったから。


私が英語学習を始めたのは受験と同時期。それまで興味がなかった英語に対して、受験だから勉強せざるを得なかった (結果的には楽しく続けたわけだけど)。

全く勉強の仕方を知らない私は、両親に行かせてもらった塾の先生の言葉を全て信じることにした。

授業でやった長文を明日までに何十回と読むとか、文法問題は自分で説明できるようにするとか、(最低ラインとして) 5-6周は文法問題集をやるとか。

長文を読むときは機械的に読むのではなく気持ちを込めて読む。気持ちを込めるには当然意味がわからなければできない。

単語も和訳がわかるとかそうではなくて、もう受験勉強時間は TARGET をずっと読み続けろと。なのでお正月のおせちを食べている時もずっと手元にあった。


ということで、これが最初にできた私の基準。「問題集を1周したから別のをやる」なんてアイデアすらなかった。音読を何十回としていない長文をそのままにすることはなかった。食器は洗ってからまた使うのと同じで、音読をしてから次に進む。

文法問題集も声に出して声に出して読めないならまだその問題は不十分。まだ不十分なのだから、本番で最大限活用できるはずはない。

あとは「復習 (して終わり)」という考えもなかった気がする。単語も音読も「やり続けるもの」。流石に読みすぎて何も変わらなそうだよ〜となって初めて別を読んで、けどまた同じものにかえってくる。


もちろん今は学習の目的に応じて音読の回数は変えるし、いろんな学習方法を知っている。ただこの基準のおかげで反復練習を面倒だと思わないし、それをやっていない時は伸びないことも知っている。


教える時に

この「基準」は自分で作るものというよりはたまたま最初に出会った時のレベルが染み付いてしまうもの。意図的に変えない限りは。

周りがみんな100回音読していたらそれが当たり前だと思うし、音読を知らない世界線で誰も音読をやろうとは思わない。


私は非常に運が良かった。初めに高い基準に出会えたから。だけど良くも悪くも今の世の中は「楽な学習」が出回っているせいでこの基準が低く設定されてしまいやすいんだと思う。

数ヶ月で英語が伸びるとか、点数がどうとか、楽に伸ばせるとか。当然そうした簡単そうな内容がバズるし、みんなの目につきやすくなる。だから学習の基準というか、苦労の基準か何かが低くなってしまう。

だから何十回と読むことを面倒だと思ってしまうし、問題が解けたら次の問題集を進めたくなってしまう。*学習者全員が、じゃないよ


そこで私が英語を教える際に意識しているひとつのポイントは、相手の「学習の基準」を最大限引き上げること。せっかく私と勉強するんだから。

「頑張って10回読むぞ..!!」という状態を「最低10回は読まないと話にならない」と感じてもらうこと。単語の意味がわかって満足している状態を、もっと多くの情報を語れないと何か足りないと感じてもらえること。
*当然相手の感情は考慮した上で少しずつその基準を引き上げていく


ではどうやって引き上げるか.. の話は無限に続きそうなので一旦これでおしまい。今日も書き上げられたので、めでたしめでたし。






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