京都 伏見稲荷と禅院
先週京都へ行った。
子どもが生まれてからはすっかり足は遠のき、4、5年ぶりだったのではないだろうか。
子どもたちが子供たちだけでがおばあちゃんちにお泊まりしたいと言ってくれる日が来るなんて想像していなかったが、その日は来て、私と夫は10年以上ぶりに2人で京都に出かけた。
まず、一度も行ったことがなかった伏見稲荷大社へ。
山全体が信仰対象となっており、山岳信仰と稲荷信仰が合体しているように見えた。
山ぜーんぶがお参りスポットになっており、山登りをすることになるとは予想していなかったが、たくさんのお参りスポットを巡るのは賑やかで、とても楽しかった。
ここは千本鳥居で有名だが、私は「お塚」と呼ばれる、伏見稲荷大神様に別名を付けて進行する人々が、石にそのお名前を刻んで奉納したものの数の多さ、大きさに興味を惹かれた。
最初見た時は、お墓かなって思ったくらい、個人的で思いが詰まっている感じがしたから。
でも途中から、たくさんたくさん本当にたくさんのお塚を見ていると、なんだか楽しくなってきた。
祈りのワンダーランドのような気がしてきて、にこにこしてきてしまった。
お稲荷様の懐の大きさ、偉大なるパワーは何千ものお塚を生み出していた!
お稲荷さんはお稲荷さんです!ではなくて、そのパワーに無数の名前がつけられてそこに存在していることが嬉しくなってきた。
日本の神様って勝手に荘厳な感じをいだいていたけど、東南アジアで触れてきた神様のおおらかさのようなものを感じたからかもしれない。
伏見稲荷大社は、お稲荷様の大きな温かいパワーが人々の祈りを包む、あったかくて楽しいお山だった。
続いて歩いて、大好きな大好きな光明院へ。
ここは10年以上前に友達に連れてきてもらい、大好きになったお庭がある禅院。
この日も美しかった。
前は、ただ美しいと感じただけだったけど、今回は宇宙を表しているその世界観に尊敬や圧倒や親しみを抱いた。
このお庭はきれいに作ろうとかそういうことじゃないんだ。お庭を作った人の心がそのまま表現されているのだなあと、感じた。
波心庭
お庭の名前に心が入っている意味に少し触れられたような気がした。
その波心庭を眺めていると、バガボンドの天地は一つという言葉が浮かんできた。
計算されているがすべてが計算されているわけではない。
スペースがある。
そこを訪れるすべてがお庭の世界で、何が来ても、鳥でも人間でも、何ひとつその世界観を邪魔するものではない気がした。
そして最後は閉じる間際の東福寺へ。
すべてのものが大きく、こんな大きなものを作り上げた、人間の信仰心に圧倒された。
700年前からある禅堂。
700年前…
建物もそうだが、特別公開されていた仏像にも圧倒された。
この仏像も、仏像をつくった人の心の中にいたんだなということが伝わってきた。
その信仰心、平安を願う力に圧倒された。
すごい、人間ってすごいパワーを心に持っているんだということがお腹から湧いてくる。
コーチングという対人支援を学んでから行った初めての京都。
感じるものも違っていた。
人間の願いのパワーをたくさん感じ、心が満ち満ちになった1日だった。
自分の心の平安、身体の平安、家族の平安、会社の平安、世の中の平安
色んな平安を願ってきたわたしたち。
今も願い続けているわたしたち。
平安をイマジンすること、あきらめずにイマジンしていこう。
そしてイマジンがはち切れそうになったら行動が自然と起こせるようになってくるのかな。
そんなことを思った京都の旅だった。
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