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Happy 92nd Birthday!

それは幼稚園の卒園式を終えたばかり、3月の終わりごろだったと思う。
夜中の2時ごろ、救急車の音で目が覚めた私に、ちょうど前の晩から泊まりに来ていた親戚のお姉さんが声をかけた。

「ママはちょっと具合が悪くなってこれから、病院に行くのでお姉ちゃんとお留守番してようね」

その晩母は帰ってこなかった。翌日はお姉ちゃんと入れ替わりにお手伝いのおばちゃんが来て、いつもより優しく話しかけてくれた。

どうやら母は「にゅういん」したらしかった。

昼間はおばちゃんがいてくれて、夜は悦子のおばちゃん(父の弟の奥さん)が泊まりに来てくれることになった。(父は出張がちで1週間に二回くらいしか帰ってこないので)

子供が病院に行ってはいけないと言うのが母の意思だったようで、私は「おみまい」に連れて行ってもらえなかった。

普段は禁止されていた縁日にお手伝いのおばさんが連れて行ってくれたり、悦子のおばちゃんは楽しいお話をしてくれたり、大人がとても気を使ってくれたので、私はそんなに寂しい思いはしなかったけど、やはりふとした拍子に「母がもう帰ってこないのではないか」と心配になっていた。でも私が心配すると大人が心配するので、素知らぬ顔をしていた。

赤と白の縞模様の蛇のぬいぐるみを首に巻いて、自分より大きなピンクの熊のぬいぐるみと白黒のパンダ(その頃はまだパンダは来ていなかったけどぬいぐるみはあった)のぬいぐるみに囲まれて入れば、ママがいなくても平気だった。

1週間(とても長く感じられた)経って母は退院した。本当はお医者さんに止められたらしいけど、母はどうしても退院したかったのだ。

私の入学式に出たかったから。

母の病気は自律神経失調症だったらしい。(後から知ったことだけど)その原因だったんじゃないかと思うくらい母は私の入学受験に熱心だった。

慶應の小学校の発表で落ちたのがわかったその日にすぐに学芸大学竹早小学校の試験に申し込みに行った。とのちに何度も聞いた。

竹早小学校の入学試験には無事合格したのだけど、そのあとのクジが補欠の2番だった。それで随分ヤキモキしたらしい。受かった二人が他の小学校に行けば、私は入学できる。相当気を揉んだと思う。何日かして、繰り上げ合格の連絡を受けた。

「ほっ よかった」

安心したのがいけなかったのか、それから数日して、夜中に母は目が回り、入院してしまったのだ。疲れが溜まっていたのだろう。

そんな思いをして入った学校だった。母は入学式にどうしても出たかったのだと思う。ドクターストップを押して出席した入学式の時の母の写真はどれも仏頂面だ。よほど具合が悪かったのだろう。

私は母が38歳の時の子供で、当時としては相当高齢出産だったし、小学校に入る直前にそんな出来事があったので、「母は体が弱い人」と言うイメージが私の中に出来上がってしまった。

それからと言うもの、たとえ近所にお使いに出かけたのを待っている時でも予定の時間より母の帰りが遅くなるとその時知っている一番悪い病気を想定して

「盲腸になって帰れなくなってるのではないか」

「結核になったのではないか」

と心配して待つような子ともだった。

私が小学校の頃の母と言うのは40歳代後半だから、きっと今から思うと更年期だったのではないかと思うけれど、何かと言うとすぐ夜中に目が回っては、私が薬を出して飲ませる。と言うようなことが半年に一回くらいはあるような生活で、母は体が弱い人と言う印象をずっと持っていた。

大体が歳をとって生まれている上に弱いのだから、当然そんなに長く生きてくれないのだろうなあ。と漠然と思っていた。

母は体は弱かったけれど、教育熱心でPTA活動には積極的に参加していた。

私が幼稚園の時に始めた刺繍はずっと続けていて、3年生くらいになるとママ友を呼んで刺繍教室を開くようになって。

我が家はいつも人の出入りが絶えない家庭になっていた。

それからもたまに夜中にめまいを起こすことはあったけれど、母は意外に元気で、大病もすることはなかった。(実はこう言う人は元気な人と言うのかもしれない)

時が流れて、私が15歳の時、父と離婚してからは母は家庭教師と塾の講師とママ友の刺繍教室の3本立てで「万が一父からの仕送りがなくなった時」に備えてとにかくよく働いて、私を大学まで出してくれた。

体こそ忙しくなったけれど、父と暮らさなくなってからストレスがなくなったからか母は見違えるように元気になった。

それからうん十年。昨日、92歳の誕生日を迎えた。

長生きだった自分の父親(90歳没)を越し、

長兄の91歳も越した。

「大人になるまで生きてるかなあ」はとっくに制覇し

「21世紀になるまで生きてるかなあ」もとっくに通り越し

もはや平成の次の時代まで生きることになりそうだ。

次の目標は「東京オリンピック」になった。

体が弱いと思っていたけどいつのまにか、だれよりも元気になっていた母。

今は圧迫骨折の後遺症で背中が湾曲している以外は内臓系は取り立てて悪いこともなく、平穏に暮らしている。

昨日が92歳の誕生日だったので、すっ飛ばして母の今までを記録してみました。

生きているだけで丸儲け。本当にありがとう。


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