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今があるのは、何かを少しずつ重ねてきたから

千里の道も一歩から、とはよく言ったものだ。

私は料理が得意ではないので、普段自宅でも簡単なものしか作らないのだが
実家には外食の習慣が一切ないため
帰省するたびに母が料理をする姿を見ることになる。
その母も実は料理は好きでないらしく
ため息をつきながらキッチンに立つことがほとんど。
そんな疲れた母を見て「たまには私が料理したほうが良いよな」と思いつつも
自分に料理の習慣がないから重い腰が上がらない。
結局せいぜい母の料理を手伝い、後片付けは私がやるというのが帰省した時の定番になっている。

実家に来るたびに「私が料理しないとな」と思うのだが
義務感でキッチンに立ったところで献立が思い浮かぶはずもなく
さらには献立を考えながらスーパーで調達する材料を考えると
もはやそこで力尽きてしまう。
結局「母の頭には何かしら作ろうとしているメニューが浮かんでいるっぽいし、その材料も家にあるようだし、今回も母の手伝いでいっか」となってしまうのである。

そんな私も、一人の時に毎回外食ができるような財政状況であるはずもなく
健康面での不安もあって
亀の歩みですこーしずつ料理を覚え始めた。
そうするとその日に食べたいものがだんだん細かくなってくることに気づく。
すき家の牛丼、から茄子の煮物、みたいに
店名×料理名から素材×料理名に変わり
野菜の登場回数が多くなる。
素材のバリエーション分だけ献立の種類も増えていく。
(たとえ味付けが同じだったとて、私にとっては立派な別メニュー)

簡単なものはレシピを見なくても作れるようになり
家にある材料を考えて足りないものを買い足す、という
高度なことができるようになった。

そしてここまできてやっと、
実家で調理をすることに抵抗がなくなった。
まずは頭の中にある、見なくても作れるものから。
何回も自分で作っていて失敗しない自信があるものから。
そうやって徐々に可動域を広げていった先に
友人が泊まりにきた時に手料理を振る舞える自分ができて
恋人とピクニックに行った時にお弁当を持っていく自分ができるのだろう。

大木だって一部枯れたり腐ったりしながら、少しずつ成長をしていくのだ

こんなに地道に進めないと料理すら人前でできないのかと
(しかも親の前ですら)
絶望的な気持ちに陥りそうにもなるが
逆に言えば今自分ができている物事たちは
得手不得手こそあれ何かしら練習をしてきたからこそ
この状態まで来ているのだということ。
その積み重ねは内容は違えどみんなが通ってきたこと。
得意なことは人よりちょっと過程を省略できたかもしれない。
私より料理が好きだったり得意な人は
さほど緊張せず実家でも料理をしたり
みんなに食べてもらったりしているかも。
それでもちょっとずつ上手くなっていくことはみんな同じ。

自分には何もないように感じても
今いる状況が当たり前だからそう思ってしまうだけで
本当は生きている人たちみんなが何かを積み重ねてきた。
その重みをもっともっと感じるべきなんだと思う。
自分らしいその軌跡を振り返ったら
次の小さな一歩が見えてくるはず。


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