もういいよ
2024年11月20日のひとりごと日記
昨晩は愛するミセス(Mrs.GREEN APPLE)のライブ、今朝はこちらも愛するのびたまごさんの「のびフェス」でお話しさせていただくというとっても濃密な2日間を過ごしている。
ライブとフェスと両方を楽しみたいというワガママから、一晩横浜に泊まることにした。泊まったホテルをチェックアウトしてから久々のホテルニューグランドへ。ナポリタンを食べた後に山下公園を散策してそのままハマスタまで歩いて、公園の横のスタバで今書いてる。
今日のびフェスでお話しさせてもらった後に、1人でstand.fmの収録をしてみた。
yukoさんと一緒にお話しするのもとっても楽しかったし、気づきもあって、まさに人と一緒に起こることの化学反応のような”波紋”を味わえてなんとも言えない幸せな感じだった。
でもちょっと話し足りなかったので、話した。
で、今は文字にしてみようと思い立って書いている次第。
まずはミセスのライブ(Mrs.GREEN APPLE on Harmony)のこと。もうね、参加(なんでライブって参戦ていうのかしら?)できてよかったの一言。大森さん(ボーカル、制作全般)の凄さを目の当たりにした。
この夏に初めてミセスのライブ(ゼンジン神戸1日目)に参加できた。それもすごくすごくよかったけど、ちょっと私が喰らいすぎて酔った感じもあったし、隣の人に遠慮してしまったのもあって、全力を出せなかった(はしゃげなかった)感があった。
だから今回は、始まる前に両隣の方に「うるさかったらごめんなさい」と事前予告をさせていただいた。
結果、両隣の方も動きまくってくれているタイプの方で(右隣の方は私以上だったかも)、杞憂に終わった。
ちょっと心残りはもっと声出したかったなぁ、かな。
(みんな静かなんだもん。ちょっと遠慮したかもそこは。もっと叫ぼうぜ)
Harmonyはオーケストラというかビッグバンドというのか、弦楽器と管楽器が入った編成で原曲から結構アレンジされている曲が多かった。なんならおそらく弦に合わせて転調させていたのではないかなぁ。
それも含めて新鮮だったし、Harmonyとは言い得て妙。楽器の音たちの楽しそうな感じがよかったな。
私はフェーズ2からのJam’s(=ジャムズ、ミセスのファン名称)なので、フェーズ1の曲たちは発表された当初のことを知らない。
今回のライブではフェーズ2の曲は泣いちゃう曲も多かったし、それは同感というかそうそうそう!!!という感じで私の中にあるものを言語化してくれている、歌ってくれている感じで涙になってたのではないかな。
フェーズ1の曲は結構苦しい感じというか、切なくてきゅーっとなることが多かった。今の私がその頃の大森さんに「そんなことないよ大丈夫だよ」と声をかけたくなっていた。
大森さん(というかミセス)はエンターテインメントに昇華しているから、余計なお世話なのだろうけど、、、ついうっかりそんな風になってしまうほど、引き込まれた。
今のミセスはきっとその当時の苦しさというか葛藤というか、そんなものは乗り越えているように(勝手に)感じている。だからあんな風に”いっちゃっている”感じで歌えるのかもなと思う。
全然違う次元で歌うとそうなるのかなというか。
私がそう受け取っただけで実際のところはもちろんわからないけど、聴けてよかった。私が勝手に祈っていた「大丈夫だよ」が伝わっているといいなと思っている。
今日ののびフェスの配信はちょっとだけ緊張した。
なんというか力みがあった感じ。
コラボという形だからということでは(たぶん)なく、循環させたいという気持ちとか、世界で私がいるということを意識したりとか、いただいたお題(私個人は”闇の中の光”、コラボ配信の共通テーマは”覚醒”)を無意識に意識していたからだと思う。
知らず知らずに入っていたその力みを、一緒に配信してくれたyukoさんに緩めてもらった気がする。
ありがとうございます!
配信中に頑張る話をしていた時、yukoさんに「(小さい頃に)怒られてたからかなぁ」と言われて「うぅっ」となった。
確かにすごーく怒られて育った。でもその怒られ体験は癒せたと思っていた。時代とかもあったんだなぁとか、その怒っていた人の状況とか、想像ではあるけれど、俯瞰できるようになっていたし。
今は、みんな生きているだけでOKで、そのままで十分ということを前提な世界だと知っているのに、愛されているし愛しているでいいのに。
そうじゃない世界だと勝手に決めて拗ねて、長いことその世界を生きてきたから、まだ慣れきっていないというか、時々戻っちゃうという感じ。気づかないうちにクセになってたものってなかなかこびりついてる感じ。しつこい汚れのような。
(話が脱線するけど、髪の毛とか食べ物とか物質がいつの間にか汚れになっていっていくのって不思議だ)
まだ頑張ろうとしている私がいたのにびっくりした。
本人の自覚では頑張るにならない頑張るはOKなのでは、というように私は話したと思うけれど、頑張るっていってる時点で頑張ってるんだよな、、、
素直だな、私よ!
でも、圧かけないとやらない私もいるのよぅ。
圧は努力じゃない?
努力って何??
あれ?
ちょっとわからなくなっているので、このままにしておきます。
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さて、突然飛ぶような感じもあるけれど、今、私が大切に感じていることを書いてみる。
起こること・起こっていることを全て歓迎する。
いいことも悪いこと(と仕分けてしまいがちだけど、本当はただ起こっているだけで、そこに主観はいらないというか)も全部。
それをタミル語では「ワナカム」(敬意とか歓迎するという意味)という。
最初聴いた時はその言葉の感覚がイマイチわからなかったけど、今はわかる気がしている。
そしてこの「ワナカム」という言葉は、ミセスの曲のタイトルにもあるけど「ケセラセラ」な気がしている。
諦めるじゃない。でも、受け取り拒否しないで現実に起こっていることをそのまま受け取るというか。ただそうあるという姿勢・在り方な気がしている。
私が今大切にしたいのは、これだな。
歓迎しますの心意気。
”ただいるだけでいい”世界で、私にも世界にも敬意を持って、起こること全てに、安心しながらでも軽やかに楽しんでいく。心からやっていく。
その私でいられると、とっても心地よい。
うっかり、ちゃんとしようとしたり、勝手な推察して自爆しないで、、、
楽しむだけでいいのだ、世界を。人生を。今回生きていることを。
それこそHarmonyを楽しめる気がする。
私はその世界で何ができるか?
それをわからないにしたままにしないで、動き出したい。
ずっと音は鳴らしていたけど、どこか不安と緊張とで苦しかった。
その生き方をもうやめていっていたと思っていたけど、、、まだあった。
だからこそもっとちゃんと、鳴らしたい。
私も世界も信頼して、恐れではなくて愛で、愛情でなくて期待でなくて、愛で。
その私のままどこまでいけるかな。
今までも”どこまでもいってた”つもりだった。
15年以上新卒から勤めた会社の退職や1年間働かないと決めて動き回っていたこととか、大きく変わった2023年。その1年前に「私を生きる」決めた出会いがあって、少しずつ変わっていっていたつもりだった。
でも、まだ怖がっていた。信頼しきっていなかった。どこかに疑いがあった。
今もまだ少しあるかもしれない。というかさっきも書いたように”うっかり”クセが戻っちゃう時がある。
ただそれは実は戻ってるのではなくて、試してるのかもしれないけどな!(自作自演!)
でも、私に「もういいよ」と言おう。
戻っても戻ってないから大丈夫だし、戻ってみて試さななくても本当は大丈夫だよ。
もういいよ。
大丈夫よ。
安心していいよ。
私が世界をつくっていける。
私が願った世界に生きられる。
人間という形があって、制限のように感じることもあるけど、
その制限を楽しみたいな。
その中でできること、その中から飛び出せること。
頑張らないでワクワクだけして、ときめいていたい。
「Yuちゃん、もういいよ」