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6月11日 日記

梅雨入りになって、ようやく部屋のこたつを撤去した。

今年は随分と、このこたつに助けられてきた。21-22シーズンの冬は、暖房器具がエアコンしかなかった。そこから出る微かな暖風は、部屋の構造上エアコンの上に位置するロフトに吸い込まれていくため、全く役に立っていなかったのである。

今年はなんとか凌ぐから次の冬にはこたつを買ってくれと、早い段階で祖父に懇願していた。明くる冬が来て、こたつを設置した日は、それは革命だった。不確かだが、その日には夕食を多少豪華にした気がする。そこから半年近く、部屋の真ん中に居座られていたせいか、いざ片付けるとなると若干寂しくなってしまった。

ついでに思い出を辿ると、寝落ちして左足に低音火傷を負ったとか、ロフトに上るのが面倒でこたつの掛け布団にくるまって寝たとか、ズボラ生活しか頭に浮かばなかった。辿っているうちに寂しさも消えていた。

折角なのだからと、母親と妹を借りて部屋ごと大掃除をすることになり、約2年間の間で積み重なった段ボールなどを全て捨てた。

片付けができない人間あるあるで、9割方要らないものでも、1割の可能性があるならば捨てることができない。結果として、貰ってから1度も開かなかった冊子や広告、その他多少面白そうだと思っていたものが、埃をかぶって部屋の隅に追いやられていた。

可哀想。作った人や配った人の気持ちを思うといたたまれなくなる。そうしていたのは僕自身なんだけども。

臭い物に蓋をするという言葉は的を得ていると思う。一度溜まった部屋の要らないものは、もはやそれ自体が、部屋を構成する家具になる。家具の位置替えなんて頻繁にするはずがないので、部屋のインテリアゾーンとして気にしなくなるのだ(悪臭の場合は別)。

日に日に手をだすハードルは上がる一方、家具としてどんどん溶け込んでいくものだから、まあいいかなんて気に陥っていた。蓋を開けたらホコリのオンパレードで、こんな部屋に住んでいたのかと、なんだか気落ちしてしまった。

しかし、いざ掃除機を掛け終わった後の部屋を見たら、とてつもない快感だった。内見時の部屋の広さを取り戻し、一人暮らしに希望を抱いたあの風景を思い出した。ここが僕の部屋だ、ここで新たな生活が始まるんだと、意気揚々と荷物を運ぶ2年前の自分を。


終わる頃には19時を回っていた。途中広告を読み始めて母親に止められることが5回ほどあり、引越しの時の魔の感覚ってこれだったのか!と妙に納得した。この家を去る前にもう1回くらいは大掃除をしたい。


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