迯避論
地方国立大学の、西洋哲学ゼミに所属していた。
もう六年も前の話だ。
大学で哲学をやろうという人間にまともなやつなんて一人もいない。断言して良いと思う。わたしの周りも、みんな大体頭のねじが飛んでいるか酷く鬱屈としているか芸術に身を賭しているかのいずれかだった。
わたしは比較的ライトな芸術系で、音楽サークルで古楽器をやっていた。リュートだとかヴィオラ・ダ・ガンバだとかそういったものだ。一般的にあまり馴染みがないだろうし、変わっていたと言えば変わっていたのかもしれないけれど、まあ、そんなことは良いのだ。これはわたしの話ではないのだから。
大学三年生の頃、ゼミの院生と付き合っていた。
病的なまでに肌の白い、眼鏡の似合う人だった。日光を嫌い、研究室に入り浸り、騒がしい学部生を優しい目で見ながら自分は奥の書庫でコーヒーを飲んでいた。
年齢はいくつなのか知らなかった。見た目は学部生のわたしとほとんど変わらないような気がしたけれど、四年生を三回やった後に院試を受けたという噂も聞いたことがある。
「同回生はもう一人もいないよ」
ゼミの飲み会ではじめて話をした時、彼はそう言った。
「良い奴は皆さっさと卒業してしまった。後輩たちもそうさ。俺はずっと同じ場所にいるんだけどな」
「なんだか不老不死の人のようですね」
わたしの答えに彼は愉快そうに笑って、それから話をするようになった。
彼はずっとウィトゲンシュタインの研究をしていて、常に『論理学論考』と野矢茂樹先生による論考の解説書を御守りのように持ち歩いていた。彼の研究の話を何度か聞いたことがあったけれど、全く分野の違うわたしにはちんぷんかんぷんだった。彼は難しい顔をするわたしを見て笑った。その顔が好きだったことを覚えている。頭のあまり良くないわたしの話を真剣に聴いてくれたことと、わたしが出る演奏会に必ず足を運んでくれたことも忘れられない。
大学に来て哲学をやる人間にまともなやつなんていないと言ったけれど、その学問を推定八年間続けていた彼がまともであるわけがなかった。
いつも大体研究室の書庫にいる彼が、二週間ずっと大学に顔を出さないことがあった。しかも頻繁に。その間は電話も繋がらず、アパートを訪ねてもドアは固く閉ざされている。これこそ彼が四年生を三回やってしまった要因であり、大学生活を終えられぬ理由でもあった。
「先輩は二週間何をしているんですか」
純粋に疑問に思って尋ねたことがある。彼は迷うように視線を泳がせて、
「小説を書いているんだ」
と、言った。予想もしていなかった言葉に、わたしは目を見開いて彼の青白い顔を見た。
「知らなかった」
「誰にも言ったことがなかったから」
彼は笑って、わたしから視線を逸らした。それは照れ隠しというよりも、大事に隠してきたことを口にしてしまったことに戸惑っているような表情に見えた。
「……読ませてくださいよ」
「それは、」
できないな、と彼は言う。
「書き上げられなくなったんだ。ここ八年くらいずっとそうさ」
書庫の奥のいつもの席で、彼は少し欠けたコーヒーカップを包み込むように持ち上げた。
「俺は君のリュートが好きだよ」
彼の指を見ていたわたしは、その言葉に顔を上げた。少し潤んだ目で、彼はわたしを見ていた。苦しくなるような視線だった。
「君が弾くガンバの音も好きだ。君が、本当に好きで弾いているのがわかるから」
何と応えていいのかわからなかった。ありがとうございますと笑おうとして失敗する。彼はゆっくりと瞬きをした。青い影が痩せた頬に落ちる。
「好きだったんだよ、俺も」
彼は俯く。
「文章を書くのはずっと好きだった。子どものころからずっと」
独り言のような小さな声だった。わたしは気配を消すように黙っていた。呼吸を殺して、視線を落として、彼の言葉が続くのを待った。
「昔はね、何でも書けていたんだよ。もう読み返すこともないような稚拙な作品ばかりだけれど、きちんと終わらせることができていたんだ。でも、いつからだろうね。書き上げることができなくなった」
プロになりたいと、思ったときからかもしれない。一層小さな声で言って、彼はコーヒーを一口飲んだ。
「何を書けば良いのかわからなくなった。どうすればプロになれるのかわからなかった。指南書を何冊も読んで、どれだけ頭をひねっても、必ず途中で手が止まった。振り返れば大量の未完成作品が積み上がっていた。そのうち好きなように書くこともできなくなって、いつしかもう自分には書きたいものなんてひとつもないことに気付いてしまった。でも、やめることもできなかった。今から真っ当な生き方をするなんて、できるわけがない」
彼の細い手が少し震える。
「書くしかないんだ。語り続けるしかないんだ。もう、何も、語ることなんて残されていないのに。俺は、いつから……いつから、好きだったものをこんな逃避論に使ってしまうようになったんだろうね」
わたしは彼がいつも御守りのように携えている論理学論考に視線をやっていた。ウィトゲンシュタインには明るくない。でも、論考において第六章まで言語と世界の構造について論じたあの哲学者が、第七章に一行だけ書いた命題はあまりに有名だ。
――語り得ぬものについては、沈黙するしかない。
彼は言葉を止めた。わたしも何も言えなかった。カップの中で冷めたコーヒーだけが、彼の顔を映して少し揺らいでいた。
彼が大学に来なくなったのは、それからしばらくしてからだった。案の定電話は繋がらず、部屋のドアも固く閉ざされていた。二週間が経ち、ひと月が経ち、半年が経ち、一年が経った。彼について、死んだとも失踪したとも噂が流れたけれど真偽はわからない。彼と会うことはそのあと一切なく、わたしは順当に、翌年の春に大学を卒業した。
社会でそれなりに生きていくようになって、リュートやガンバに触る機会もなくなった。それでも朝早く、通勤の道を辿りながら携帯から流れる古楽器の演奏を聴いていると、大学時代のことを思い出し、彼の黒い瞳を思い出した。
彼はどこかでまだ、物語を書き続けているのだろうか。途方もない夢路の果てで。
朝焼けの空を見上げ、わたしは再び歩き出した。