Enantiomorphs
目を開くと、鮮明な夢の記憶が残っていた。
一拍遅れて、机の前に座ったまま居眠りをしていたことに気がつく。時計に視線をやるが、短針はおろか長針すらほとんど動いていなかった。頭の中に残った風景の中に、僕は随分長くいたような気がするのに。
パソコンのディスプレイには書きかけのレポートが表示されている。プラトンの『饗宴』に見る愛の概念について。
僕は一度瞬きをして、夢の中で出会った彼女と交わした会話をなぞろうとする。
二人は、駅の改札で別れようとしていた。
*
駅には、僕たちしかいなかった。足もとでタタンタタンと電車が走り出す音が聞こえる。足に伝わる一定のリズムは、そのうち遠ざかっていった。
窓からは光が差し込んでいるけれど、それが何の光なのかはよくわからない。太陽ではないような気がする。もう随分長い間、光は傾くことも沈むこともない。その白い光のせいで、窓の外がどうなっているのかわからなかった。
僕らは改札をくぐることができずにいる。ここで別れなければならないことを知っていて、けれどどうにも別れがたいと思っているからだ。
彼女とは、向かうホームが違う。行き先は同じなのにもかかわらず。
僕は彼女の切符と、自分の切符を見比べる。表示された駅名は同じ。同じはずなのに、彼女は環状線の左回りの電車に乗ろうとしていて、僕は右回りの電車に乗ろうとしていた。
「だから一緒に行こうよ」
僕は彼女の横顔に声をかける。このセリフも、何度繰り返したかわからない。そのたび彼女は困ったように笑って首を振る。
「駄目よ。決まったことだから」
「誰が決めたの」
「それは、」
彼女は言葉を切って迷うように視線を落とした。的確な言葉がどこかに落ちているのだというように視線を泳がせてから、そっと口角を上げる。
「神様かな」
僕は「そうか」と頷く。神様なら、もう抗えないなと思った。一緒に行こう、と何度も口にしながら、僕自身それは叶わないことだとわかっていたのだ。
また、足もとで電車の走る音がした。
僕らはどれだけ乗るべき電車を見逃してきたのだろう。いつの間にか数えるのをやめてしまった。
「たとえば、グルコース」
不意に、彼女が口を開く。
「なに?」
首を傾げる僕に、彼女は自分のこめかみを指さす。
「脳という臓器を働かせる、唯一の栄養素」
彼女の言葉に、知ってるよ、と僕は頷いた。
「グルコースはね、構造的に鏡像異性体を持つはずの分子なの。原子の作りは同じだけど配置が違う。ちょうど、右手と左手みたいなものよ。作りは同じだけど、別物でしょう」
彼女はそう言って自分の右手に左手を乗せる。中指を中心に、二つの手のひらは重なり合わない。彼女の白い指を見ながら、僕は黙っていた。彼女は時々こんな風に、思いつくままに言葉を口にすることがあった。
「鏡像異性体を見分けるには、光をあてればいいの」
「ひかり」
僕は窓から差し込む光に視線をやる。眩しくて目を細めた。
「そう。光をあてると、二つの分子は右か左に旋回する。たったそれだけの違い。それだけで、全然違うの。全く別物になってしまうのよ。同じものだったのに」
彼女はそう言って僕を見る。
「そして自然界にはグルコースの鏡像異性体は存在しない。グルコースは右回り。完全ランダムなはずの自然界で、何故か左回りの異性体は生まれない」
どこかで世界が、別れてしまったのね。
そう締めくくって、彼女は息を吐いた。足もとを電車が行く。強い光が窓から差し込んでいる。僕は右手で、彼女の左手を握った。
彼女は顔を上げる。
「大昔、人間は腕も足も四本あって、頭が二つあったって知ってた?」
今度は、彼女が首を傾げる番だった。そういえば、僕は彼女の不思議そうな表情が好きだった。丸い目と、少し開いた薄い唇。傾いた無防備な首筋。
「おへそでくっついていたんだってさ。あんまり想像がつかないよな。でもあるとき、神様がそれをふたつに裂いてしまったんだって。人間はひとつの頭と、二本の腕と、二本の足で生活するようになる。でも、いつもどこかで探しているんだ。引き裂かれる前の片割れを」
彼女の目が、ほんの少し潤んで見えた。
僕は笑おうとする。
「片割れに出会ったとき、沸き上がる感情が、愛なんだって」
僕は彼女の左手を一層強く握った。彼女の手は温かくも冷たくもない。自分と同じ体温だ。まるで、自分の手を握っているようだった。
「また会えるかな」
僕は言う。彼女は曖昧に頷いた。
もう二度と会えないことは、二人ともちゃんとわかっていた。
「……一緒に行くかい」
繰り返したセリフを、もう一度口にする。彼女は目を細めて、首を振った。
「ううん。行かなきゃ」
彼女は僕の手を離す。空になった右手に光が射した。改札に向かって歩き出す、もう振り返らないその背中を見送って、僕も僕のホームへと下りて行った。
*
夢の輪郭をなぞって僕はひとつ息を吐いた。脳に突然刻まれた記憶。この臓器を動かす物質の、存在しない片割れを思う。
耳の奥にはまだ、電車の遠ざかる音が残っているような気がした。
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