ココロの質量
ファインダー越しに、絵筆を走らせる彼女の横顔を見ている。シャッターを切ろうとする僕の方を向いて、
「だから撮るって言ってよ」
彼女は不機嫌そうに言った。僕はカメラをおろして笑う。
「撮るって言ったらやめてって言うじゃん」
「そりゃあ言うわ」
彼女は眉を寄せて僕に言い返すと、再びカンヴァスに視線を移す。午後四時半を回った部室からは、遠くの海に沈む夕日がよく見える。開け放たれた窓に、晩秋の冷たい風が吹き込んだ。
僕は彼女を撮ることを諦めて、ぼんやりと彼女が絵を描く姿を見ていた。彼女の小さな手は迷いなく動く。カンヴァスには色彩が広がっている。青と緑と黄色を基調に、何か光のようなものが描かれているということだけ、わかった。海のようでもあるし、どこまでも続く夏の草いきれのようでもある。差し込む西日が彼女の白い頬を照らす。嗅ぎ慣れたテレピンの匂いが満ちる部屋で、僕は息を吐いた。
「ねえ」
「なに」
僕の声に、彼女はこちらを振り向くことなく応える。
「それ、何の絵なの」
「空」
彼女は即答した。思いも寄らなかった応えに僕は目を開き、
「そら?」
聞き返す。彼女はようやく僕の顔を見て、
「夕焼け空」
はっきりとそう言った。
「そうは見えないって言いたい?」
「まあ……でも芸術なんて何やっても自由だし」
彼女の問いに答えながら、僕は視線を窓の外に移す。空は燃えるような赤色とオレンジに染まっている。細く浮かぶ飴色の雲。ごくありきたりな、見慣れた夕焼けだった。僕は沈んでいく夕日に向けてカメラを構え、シャッターを切る。カシャ、というシャッター音に重ねるように、
「見えた通りにしか描いてないわ」
と、彼女が言う。その意味を捉え損ねて、僕は「え?」と聞き返した。僕の姿が逆光になっているのだろう。彼女は涼しげな切れ長の目を眩しそうに細めていた。
「色の見え方がおかしいの。夕焼け空がわたしにはこう見える。それを描いてた」
その写真と一緒。視界そのものよ。そう、重ねるように彼女は続けた。僕は黙って、青と緑に染まった彼女のカンヴァスに視線を移す。よく見ればカンヴァスはところどころ擦れたような傷がつき、角は擦れてほつれていた。
「色覚異常ってやつ。赤が、あんまりよく見えない。その代わり青と緑が凄くよく見える」
「知らなかった」
「言ってなかったもの」
ふふ、と彼女は笑った。静かな微笑みからは、今ひとつ感情が読み取れない。彼女は視線をカンヴァスに戻した。
「色が見えないのに絵を描くなんておかしいって言われちゃうでしょ」
「言わないよ、そんなこと」
「言われてたのよ、たまに」
僕は口を噤む。首から提げたカメラに視線を落とし、
「それは君が死んだことと関係があるのか?」
呟くように問いかけた。口にしてすぐ後悔の念に駆られ顔を上げる。けれど彼女は表情を変えることなく、右手で更に色を重ねる。
「関係ないと言えば、嘘になる」
そう言って、また少し笑った。
*
三年生が引退した去年の秋、部員がひとりになってしまった写真部と、同じく部員がひとりになってしまった美術部は合併して同じ部室を使うことになった。
同じ部室を使うと言っても、僕は大体外で植物だの動物だの県大会を控えた運動部なんかを撮っていたから、部室に立ち寄るのは毎日ほんの数分間だ。それでも、彼女とはほとんど毎日顔を合わせていた。
部室はプレハブ校舎の三階の一番西側にあって、だからここは学校の中で一番綺麗に夕焼けが見える。夕日の写真が撮りたいとき僕は必ずここにいて、時折西日に照らされる彼女の横顔を撮った。
「撮るって言ってよ」
シャッター音がすると彼女はいつも手を止めて不機嫌そうな顔をした。「撮るよ」と言えば「やめて」と言って顔を隠すことは知っていた。僕は誤魔化すように笑い、窓の外に視線を移す。
「もうすぐ期末テストだね」
他愛ない話題を振ると彼女は静かに笑って、
「世界史のノート貸せって言いたいんでしょ?」
呆れたような声で応えた。
「よくわかったな。エスパーかよ」
「一年近く同じ部屋にいればわかるわよ」
僕は一日のほんの数分間しかここにいないのに、彼女はそう言って愉快そうに笑う。
彼女は同じ学年の、違うクラスにいた。世界史Bの授業だけ先生が同じでテスト範囲も同じだから、居眠り常習犯の僕はしょっちゅう彼女にノートを借りていた。
僕が彼女に関して知っていることは、世界史のノートに並ぶ整った文字と、ここで絵を描く姿だけだ。
「写真見せてよ。さっきの」
彼女が言う。いいよと僕は言って、画像データを表示して彼女に見せた。カンヴァスに向かう横顔は、実際ほとんど逆光になっていて見えない。けれど、その目の鋭さは画面越しにもよくわかった。
「良い写真だろ」
僕は言う。彼女は困ったように笑って、
「写真、好きなのね」
と言った。僕は頷く。
「シンプルだからね。今、目の前にあるものを切り取る。それが全て」
頭の中のごちゃごちゃしたものが介入しない。過去も未来もない。その潔さが好きだというと、彼女は満足したように頷いた。
僕が彼女の絵について触れることは一度もなかった。彼女のカンヴァスにはいつも青と緑があって、それが何をあらわしているのかなんて皆目見当もつかなかった。彼女自身も自分の絵のことについて話をしようとはしなかった。
ただ、彼女がカンヴァスに向かう姿は綺麗だと思っていた。
彼女は、深夜にマンションのベランダから飛び降りて死んだ。
その前日も僕らは手を振って別れたのだ。ただひとつ、いつもと違うところがあるとすれば彼女が描きかけのカンヴァスを持ち帰ったことだけだった。それに関しても、僕は「持って帰るの?」と問いかけただけで、彼女は「うん」と頷いただけだった。
遺書には両親に対する謝罪だけが書かれていたと、あとで聞いた。
放課後、僕はいつものように部室に入った。彼女が座っていた椅子には誰の姿もなく、イーゼルも空っぽだった。外は曇っていて、必要以上に暗く感じた。僕はしばらくその場に立ち尽くす。何を思えば良いのかわからなかった。今日が晴れていなくて良かったと思う。今日、もしいつものように眩しい西日が彼女のいない部室を照らし出していたら、僕は耐えきれずに崩れ落ちたかもしれない。一つだけ、息を吐いた。鞄を置きカメラを持って外へ向かう。
葉の落ちきった木を撮ろうとして、校舎裏を回っていた。十一月の曇り空からは、今にも冷たい雨粒が落ちてきそうだ。落葉樹は寒々しく、そして寂しげに映る。僕は木と落ち葉を何枚も撮って、それからふと、ファインダー越しに遠くのゴミ捨て場を見やった。
瞬間、胸の奥が掴まれたような気がした。
色彩を欠いた景色の中に、一点、美しい青と緑が見えたのだ。僕ははっと顔を上げる。カメラを下ろして走り出した。躓きそうになりながらその場所に辿り着いて、捨てられたカンヴァスに、手を伸ばす。
紛れもない、彼女の絵だった。
僕は絵を拾い上げて、誰もいない部室に戻った。所在なさげにしていたイーゼルに立てかける。窓の外から淑やかな雨音が聞こえた。もう永遠に、止まないような気がした。
僕は彼女が座っていた椅子に座り、
「なんで」
行き場のない疑問符を投げる。なんで、の後に続く言葉はいくらでもあるような気がしたけれど、何一つ声にならなかった。唇を噛む。手中にあるカメラを掴む手が、少し震えた。そのとき、
「重たかったから」
聞き慣れた声が、耳に届く。僕は目を見開いて振り返る。
そこには、死んだはずの彼女がいた。
*
あれから僕らはまた、放課後に部室で会うようになった。死んだはずの彼女は何食わぬ顔で絵を描く。僕はあまり外に出て写真を撮らなくなった。この部屋から見える夕焼け空ばかり写真に収めた。
「クオリア」
ぽつりと彼女が呟いた声で、僕は我に返る。彼女はこちらを向いて薄く笑うと、
「この絵に、つけようと思っていた名前」
そう言った。聞き慣れない言葉に、僕は少し首を傾げる。
「日本語に訳せば、感覚質。たとえばあなたが膝をすりむいて、痛いと思う。その痛みそのもののことをクオリアと呼ぶんだって。誰とも共有することのできない、またの名前を、」
ココロ、と彼女は言って、筆を置く。僕は咄嗟に彼女の右腕を掴んだ。そうしなければ吹き消えてしまう気がしたのだ。窓の外は、東の空から青ざめていく。熟れた太陽が海へゆっくりと飲まれていく。真っ赤に染まる水平線。
彼女には見えない色。
「ねえ、」
僕は、口を開く。声は微かに揺らいでいた。
「なんで、君は絵を描いていたの」
彼女は震える僕の手に、自分の手を重ねた。魂の重さを、二十一グラムだと言ったのは誰だっただろう。大嘘じゃないか。こんなにちゃんと重たい。重たいのに。
「誰かに覚えていて欲しかったから」
彼女はにこりと笑って、僕から手を離す。完成した絵を前にして、そっと笑った。僕はカメラを手にする。ファインダーを覗き込んで、シャッターを切って、それから――、
「僕は、」
それから、顔を上げた。彼女の姿はもう、どこにもなかった。
夢のようにすべてが消えてひとり、部屋に残されていた。ただ、彼女がここにいた証拠のようにテレピンの匂いが残っていた。
僕はカメラに視線を落とし、写真のデータを映し出す。
最後に彼女に向けてシャッターを切った、あの写真には、夕暮れと、カンヴァスのかけられたイーゼルと空っぽの椅子だけがあった。その後に続くのは、何枚もの夕焼け空の写真ばかりだ。見慣れた赤。オレンジ。飴色の雲。
僕は写真が好きだ。シンプルだからだ。今、僕の目の前にあるもの。それだけしか写らない。残らない。写真には、頭の中のごちゃごちゃしたものが介入しない。過去も未来もない。その潔さが、好きだったのだ。
――でも、
僕は終わりかけの夕焼け空を眺め、それから彼女の青い絵を見て、シャッターを切るように、目を閉じた。