横浜に住んでいると思われていたころの話
先日、斜線堂先生の脱法ラジオで、小説の投稿をはじめてからの「魔の5年間」の話をしました。一切箸にも棒にもかからない時期のことです。わたしは最初に小説すばる新人賞の二次まで残ったあと、電撃大賞に切り替えるまでずっと一次落選を繰り返していました。
こんにちは。村谷由香里です。
noteをご覧いただきありがとうございます。
最初の就職先をあっという間にやめてから地元の山口県下松市に帰ったわたしですが、ただひたすら息を潜めて公募に出し続けていたのかというと、そういうわけではないんですね。
このエッセイでは2015年に頒布を開始したアリオトの話は頻繁にしていますが、アリオトの前にも創作活動を行なっていたのです。
2013年には写真と文章のユニットを立ち上げて展示をしたり、2014年には横浜の音楽家の友人たちとやりとりをして物作りをしていました。
一時期、村谷由香里は横浜に住んでいるのではないか説があったくらいです。横浜・川崎で音楽をやっている同世代の人たちとやたら広く仲良くなって「まさか山口にいるだなんて思わなかった。港南台あたりに住んでるんだろうと思ってた」とよく言われました。
距離は遠く、直接会って話すことなんて滅多になかった。でも、あのころ、彼や彼女の作る音楽が、わたしの世界でした。横浜に住みたいなってずっと思ってた。2014年に一番聴いたCDは間違いなく、Yoshida Cantabileの「Flos Magicus」だった。
楽しかったのです。
横浜で、川崎の鶴見で音楽をやっているみなさんのおかげで幸せだったのです。
作家志望の人間としてはいちばん辛い時期だったけれど、わたしという人間にとっては、かけがえのない毎日でした。
山口から福岡に移っても、わたしを応援してくれる人ばかりだった。物を作るってしんどいよね、好きってなんなんだろうねって話せる友達がいた。
彼女もその一人でした。
素敵な音楽をありがとう。
わたしの受賞を喜んでくれて嬉しかった。
ありがとう。
それを、書いておかなきゃと思って。
昨日、横浜に住む音楽家の友達の訃報を聞いて1日呆然としていたんだけど、まだ整理なんかつかないんだけど、ありがとうを伝えなくちゃと思って。
残しておかなきゃと思って、ここに書かせていただきました。
ありがとう、さかいさん。わたしあなたに、文章を褒めてもらえるのが本当に嬉しかった。
これからもずっと書く。ずっと書くので、またいつかどこかで会いましょうね。