耳が聞こえない両親から自分にしかできない役割を発見した、サイレントボイス代表、尾中友哉さん
★尾中友哉さんのプロフィール★
株式会社およびNPO法人「Silent Voice」代表。1989年、滋賀県出身。聴覚障害者の両親を持つ耳の聞こえる子どもとして、手話を第一言語に育つ。大学卒業後、東京の大手広告代理店に勤務。「自分にしかできない仕事とは?」について考える。2014年から聴覚障害者の聞こえないからこそ身についた伝える力を活かした企業向け研修プログラム「DENSHIN」や、聴覚障害・難聴のある就学児向けの総合学習塾「デフアカデミー」を展開し、聴覚障害者の強みを生かす社会の実現に向けて活動している。2018年、青年版国民栄誉賞といわれる人間力大賞(主催:日本青年会議所)にてグランプリ・内閣総理大臣奨励賞および日本商工会議所会頭奨励賞を受賞。
記者 どのような夢やビジョンをお持ちですか?
尾中友哉さん(以下、尾中、敬称略)僕の両親は、耳が聞こえない、聴覚障害者なんですが、僕が子供の頃、とてもつらそうに仕事をしている父を見てきました。きっと父親にも昔は目指していた職業があって、でも聴覚障害者という理由でやりたかった仕事に就職することができなかったんだと思います。すごく悔しい思いを感じていたんじゃないかな。父は工場での仕事を30年やっていたんですけど、なぜ父親がこの仕事をつらいと思っているのか、それを知った時には色々感じるものがありました。
このような聴覚障害がある人の活躍の場に対する課題解決をすることが、うちの会社「Silent Voice」の活路であり使命でもあり、いいポイントだと思っています。経済的にいえば、ビジネス価値であり、社会的使命にもつながっているんです。聞こえない人たちが力を発揮できるプロジェクトを作って具現化していこうと思っています。
記者 それを具現化するために、どんな目標や計画を立てていますか?
尾中 障害者雇用で起きがちな問題は、昇進を判定するのときの昇進基準にあります。例えば、工場だったら機械の異常音に気付けるかという項目があるんですが、これは聞こえなかったら昇格できないということなんです。そしたら、会社でいくら頑張っても優秀な人ほど早く頭打ちが来るので、当然辞めてしまいますよね。自分をもっと評価してくれるところへ転職していく。結果的に、会社の障害者雇用のコスト効率が悪くなるんですね。
僕らは、聴覚障害の人たちを違う形で評価するか、音を見える化する等、その会社に合う方法を一緒に考えて、当事者の方をモチベートしたいと思ってます。
記者 その目標や計画に向かって、どのような活動をしていますか?
尾中 僕は「教育」は社会のゆりかごだと思っています。今、聞こえない子供たちの教育の選択肢が少ないという現状があって、民間の立場で新しい取り組みを試みることで、社会の「教育」へ影響を与えられるモデルになりたいと思っています。その具体的活動として、大阪で初めて聞こえない子供たちの統合学習塾「デフアカデミー」を始めました。(※DEAF(デフ)=耳が聞こえない人)
記者 ご両親の耳が聞こえないことで辛かったことはありますか?
尾中 “両親が聞こえないけど自分は聞こえる”という家庭だったので、ほぼ24時間、僕は通訳としての役割を果たさなくてはなりませんでした。家族で旅行に行ったら、両親の前を歩いていて、5,6歳の頃で、「小さなお父さん」って呼ばれてました。旅館の女将さんが出てきたら「私は尾中です」と通訳する。そしたら大人がみんな褒めてくれるんです。素直にうれしかったです。確かに意識を張ってないといけないし、体力的なこともあるんですが、褒めてもらえることが素直にうれしかったですね。僕の両親は、親として無償の愛を先に与えてくれて、僕もそれを返したい気持ちがあって、お互い与え合っていました。それがうちの家族の特徴だと思います。
小学生の時に曾祖母が亡くなったんですが、母がすごくショックを受けていて・・・。田舎のお葬式ってみんな役割があって、大人の話し合いを母に伝えないといけないんです。僕は泣く場にも入れないし、遊ぶ場にも入れない。大人同士の会話にはわからないこともいっぱい出てくるんです。僕にとっては初めてのお葬式で、それを通訳することはすごく大変で。必死だったからあまり覚えてないですが、辛いと思った出来事だと思います。
記者 今の仕事をするようになったきっかけにはどのような気づきや発見がありましたか?
尾中 高校時代、”自分”っていう自己存在をあまり感じられなかったんです。自分の偏差値でそのまま入学できる高校を選んで進学して、部活をやってたら、学校の授業が意味のある時間に感じられなくなって、年間休んでもいいギリギリの日数まで休んで、部活だけ行く感じでした。僕はベッドに横たわって昼過ぎまでダラダラしているとき、みんなが教科書を開いて勉強してるんだと思ったら、「自分の人生どうなるんだろう」「何でみんなにはできて僕にはできないんだろう」「僕には何ができるのか」と考えが出てくるんです。
その時、唯一そのヒントを教えてくれていたのが、「情熱大陸」という番組でした。情熱大陸がすごく好きで、みんな輝いてる場所って全然違うじゃないですか。自分の人生、自分のエネルギーをすべて注ぎ込む場所を持った生き方にすごく惹かれていました。
高校時代、授業で50分も集中したことがなかったんですが、映像を作る授業だけは90分本当に熱中してました。TV番組の元ディレクターの方が映像の作り方を教えてくれて、自主製作の映像づくりを寝ずにやりました。あれだけ集中できなかった授業が、映像制作になったらこれほど自分の情熱が出てくるんだ!見つけたぞ!ってね。それで広告会社に入ってTV局の担当をしていたんですけど、ほぼ毎日飲み会でね。ある晩、銀座で夜中3時頃まで飲んでいて、這いつくばってごみ箱に顔突っ込んで寝てたんです。朝、誰かが起こしてくれたから、振り向いて「ありがとうございます」って言ったらカラスが僕の身体を突いてて。そんなことってあります?
その時はさすがに「何のために働いてるんだろう」と本当につくづく思いましたよね。「自分が本気でやりたい仕事って何なんだろう」「何のために生きてるんだろう」ってね。
そんな頃、街中でたまたま手話をする機会があって、自分が個性的に思えたんです。そうしたら今の仕事につながる考えや構想が、自分の中にどんどん沸きあがってきたんですよね。遠回りしたと思いますが、そうやって歩んでこないと自分が納得しなかったんだと思います。近道してたら、「こんな仕事しかなかったのか」って思ってたかもしれないじゃないですか。
記者 そのきっかけをつかんだ背景には、どのようなものがありますか?
尾中 心のどこかに底抜けのポジティブがあるんですよ。これは幼少期にいろんな大人が、僕の事を褒めてくれた経験があったからじゃないかなあ。不思議ですよね。自信っていうのは奥が深くて、自信ない自分をいつもよく見るんですが、追い詰められたときに最後ポジティブでいれるかどうかに関しては、自信があるんです。
今は、人にきっかけを与えることが、すごくわくわくしています。
聴覚障害の人と健常者がそれぞれの立場で言い合いをしたら、物事って決まりにくいんです。そこに自分の役割があるんだとわかったんです。手話を使えて、聞こえない人との生活体験もあって、聞こえる人として生きてること。聞こえない人の立場も、聞こえる人の立場も両方理解ができる。だから自分がその間に入る役割なんだってはっきりしたんです。一見、ただの苦労に思える経験が、捉え方次第で役割とか使命感につながるんですよね。
記者 最後に一言メッセージをお願いします。
尾中 母親は滋賀県の大津で喫茶店やっているんです。母親が喫茶店やることになった瞬間を覚えています。10人中、10人の人から「本当に?聞こえない人が喫茶店をやるの?お客さんの声も聞こえないでしょう」って色んな声を頂きました。
でも、11年間わずかながらも連続黒字でやり続けてるんですね。これ凄い結果だと思うんです。みんなが「できない」って言う中で、「できた」ことが凄いと思うんです。
母は「私は聞こえないから、夫と出会えたし、このお店も持てた。人との出会いがあって幸せになるんだよ」って言います。何か困難に対してぶち当たったときに、マイナス思考で捉えるのか、プラス思考で捉えるのか、両親の生き様から教えてもらった気がします。
記者 凄く感動的なお話をありがとうございました。辛かったこと、葛藤したことがとても伝わってきました。一度、滋賀にあるお母様の喫茶店も行ってみたいです。本日は、お忙しい中ありがとうございました。
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<編集後記>
本日、インタビューを担当した泊です。小さい頃は必然的にご両親の通訳という役割をされ、成長していく中で自分自身の役割を発見していくまでの”心の葛藤、感謝や愛”がお話から感じられて、とても心を動かされました。これからは耳の聞こえない人と聞こえる人の「間」となって、新しい社会パラダイムを創建していくのを心から応援しています。今後のご活躍を心から祈念しております。
この記事は、インタビュー記事掲載サイト「リライズ・ニュース」にも掲載されています。