60点の人生

「そんなに頑張らなくてもいい。」「無理しなくていいから。」

それらはきっと心配してかけてくれている言葉なんだろう。ただ、僕はこの言葉が好きになれなかった。

実家で過ごす中、「これからやるぞ!」という気持ちを何度も挫かれてきた。一つの転換期を迎えようとしている中で、自分が変わろうと思う経緯を改めて振り返ろうと思う。

子供ながらの観察

埼玉県所沢市で3人兄妹の末っ子として生まれた。上に8歳離れた兄と7歳離れた姉がいる。父は公務員(現在は定年退職して別の仕事)、母は介護の仕事をしていた。両親が共働きだったため、小さい頃は祖母や姉が面倒を見てくれ、よく姉のあとをついていっていた記憶がある。

母親は「普通が一番幸せ」「子供には安定した人生を送ってほしい」という気持ちが強く、自分の考えと合わなかったり、機嫌が悪くなると、無口になり、急に掃除を始める人だった。

僕が小学生になるころ、兄や姉は高校受験を控えていて、受験勉強などで母親と揉める様子を端からよく見ていた。

母親が揉めた後の夕飯は、だいたい無言。重い空気があり、子供ながらにその空気が嫌いだった。

母親が機嫌が悪いと家全体の空気が悪くなる。だからこそ、小さい頃は母親の機嫌をよく観察する癖があり、気を使って洗い物をしたり、洗濯物を畳んだり、母親の機嫌取りをするようになっていってしまった。

そして、兄妹が受験、就職、結婚という人生の重要な場面で、自分たちのやりたいことを伝えながらも、母親と揉める姿をみて、

「きっと自分も分かり合えないのだろう」

というある種の諦めのようなものを感じていた。

そんなに頑張らなくていい

初めての明確な衝突は高校受験の時。母親からはずっと「兄と同じT高校に行きなさい」と言われ続けてきていた。

T高校は県内でも上位の進学校で、中学2年生まではその高校にいく気だったが、中学3年生になり、学力が思ったより伸びていくと、担任から、「もう一つ偏差値の高いK高校を受けてみたらどうだ」という話があった。

当時はあんまり意識していなかったが、意外と課題が難しいほど燃える性格だったようで「合格ラインまであとわずかならば!」と挑戦したい気持ちが強くなった。

しかし、「K高校を受けたい」と話した時の母親の返答は

「T高校が安全圏だからT高校でいい、無理して頑張らなくてもいい。」

というもので、公立を落ちて私立にいくよりは、安全圏を選んで欲しかったようだが、僕としては自分の努力やこれから頑張ろうという気持ちを評価されてないように感じ、口論になった。

特別なことはしなくていい

高校は無事K高校に受かることができた。部活動は当時テレビで流行っていた「ハモネプ」の影響をもろに受け、文化祭でアカペラバンドの発表ができるという理由から、男性合唱部に入部した。

2年生になるころ、3年生最後の合唱コンクールは、このメンバーなら全国大会にいけるのではないか、というほど勢いがあった。土日や夏休みも毎日のように練習に明け暮れていて、部員の指揮もかなり高まっていた。

しかし、当時は人にも感染する新型鳥インフルエンザが流行し、大会を目前にして、校内でも感染が流行。

僕も含め、数名の部員が高熱を出すことになり、感染防止の観点から、関東大会を出場辞退することになった。

布団の中で、出場辞退の一斉メールをみて、泣き崩れた。

3年生の引退となる時、次期部長について、当時の3年生の部長から「部長やる気はないか」という声をかけてもらった。純粋に、3年生の最後のコンクールを潰してしまった悔しさもあり「頑張りたい」という気持ちになった。しかし、母親としては、部長ではなく、普通の部員として過ごしてほしかったようで、部長になる際には小言を言われた。

「他の人になってもらえばよかったのに、どうしてこの子は引き受けちゃうのかしら。」

期待はしていない

小さい頃は、とにかく影響を受けやすい子供。かなりのテレビっ子であり、「スラムダンク」の影響でバスケにハマり、バスケットゴールをねだり、「ヒカルの碁」を見て囲碁盤を買い、「テニスの王子様」を読んで、テニススクールに通い始めた。とにかくいろいろ手を出しては、親を困らせた。

ただ、小学校の卒業文集に書いてある将来の夢には「公務員」という、当時あまり知らずにいた職業を書いていた。(漠然と、公務員になりなさい、と言われすぎて、なりたい職業に書いていた気がする)

高校生になると、バラエティやドラマも見るのが好きで、テレビに関わる仕事がしたいと思うようになったが、母親にその話をするたびに、

「普通が一番いい」と一蹴され、その度に「公務員になりなさい」という話を聞かされた。心の中では「公務員」にはなりたくない、という気持ちが次第に強くなっていた。

大学生になり、将来を考える時期。テレビやエンタメ業界にひかれていたが、周りの大学生が就活を終えていた6月に内定を取れたのは、全く違う業界の1社のみだった。しかも話で聞く限り結構重労働になるらしい。

小さい頃から、口うるさく言われてきた「公務員」にだけは、親の敷いたレールを歩くようで、どうしてもなりたいと思えなかったが、重労働と聞く内定先にいくか、残りの3ヶ月を公務員試験を頑張って挑戦してみるかで悩んでいた。

適職診断を受けると毎回表示されるのは「公務員」。実際に自分の就活の優先する事項で考えたら、公務員が一番しっくりくるんだよなぁ、と揺れていた。

ただ、残り3ヶ月しか準備期間がない、というのことが逆に性格的に火がつき、絶対に公務員試験に受かってみせるという挑戦心が生まれ、図書館にこもって、みっちり試験勉強を行った。

つくづく自分はどちらかという困難な課題に挑戦するほうが好きなんだと思う。そういう時のほうが、自然と顔がにやける。

ただ、ここでもやる気は潰されるものだった。

「別に今年受からなくてもいい」

と親から告げられた。本来1年前から準備するものだから、と記念受験というとらえでしかなかった。

挑戦がしたい

結果としては、絶対に受かって見返してやる!という気持ちで、受験も就活も通過してきた。一方で、母親に乗せられている気ということも感じてしまっている。

「自分は、本当に自分の意思で選んで、生きているんだろうか。」

まれにふとそんなことを考えてしまう。どこかで母親の機嫌をとろうとしている自分がいるんじゃないか、それがずっと引っかかっていた。

実家では高得点を出すことを期待されてはいなかった。むしろ無難な点数を出すことが求められてくる環境だったと思う。

もちろん、親の立場からすれば、子供には危険な目に合わず、安定した生活を送ってほしい、というのはわかる。その考え自体を全否定しようとは思わない。ここまで育ててもらっていることにも感謝している。

ただ、自分は、言われすぎた反動からなのか「普通」「常識」「安定」という言葉に嫌気が指すようになってしまった。

「もっと普通にしていれば」「常識で考えたら」

と言うが、その人それぞれの普通があって、考え方の違いがあって、ということを聞いてほしかった。


これからは自分の意志を通して、どこまで自分ができるのか挑戦したい。

4月から生活がかなり変わってくる。

職場も生活環境も変わる。不安もあるけど、わくわくが大きい。

責任も大きいけど、自分の人生を生きる感じがする。

グラレコも、まちづくりも、自分のやりたい想いを存分に発散していくんだ。



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