日記2023年3月②
近くの公園にお花が咲いた。最初は濃いピンクの桜、次に淡い白の桜、後から咲くのはソメイヨシノだろう。
保育園の園長先生にとって私が今年初めて見た半袖一枚の人だったらしい。朝も笑われたし、お迎えの時も半袖が来たと笑われた。
本を読んだり映画を観たりした。
本屋lighthouseでリディア・デイヴィス『サミュエル・ジョンソンが怒っている』(岸本佐知子訳、白水社)を買った。1ページや2ページの長さの短編がたくさん収載されている。「不貞」という一編がよかった。ここにいない他者に思いを馳せることの中に人間の自由の炎が小さく強く煌めく。それは今この時を過ごす人と一緒になる引力からの離脱でもあり、自由な宇宙への飛翔のためにそのような貞淑さへの否定という契機を手放さない。若い頃から歳を取るにつれてそのような「不貞な」想像が内容を薄めていき、濾過されきった透明な水の中に自由の契機としての「不貞」が析出する。ごく短い短編の中でささやかなものが大きく展開する。すごい小説だった。その他、夫婦、家族、仕事など女性の視線で語られる小説が多数ある。「優先順位」という短編が冒頭で何のことかわかったのは、作者と繋がれたような気がして読者として嬉しかった。「私たちの旅」も家族というものが難しい中で形作る均衡がささやかな芸術になりうることを示している。「面談」は社会の中で女性が受ける視線と圧力に対して炸裂するカウンターパンチとしての言葉の力がほとばしる。
ある批評家が一種の(よくない)社会現象を牽引している人物を指して「自己愛性人格障害的」と評していた。この批評家は以前にもある種の社会的な行動をとる人たちのことを「ASD」という言葉を使って批評していて、そのときも今回も一定の批判を浴びている。医師でもないのに人に向かって診断名を使うなと。「批評」の言葉として精神疾患の診断カテゴリーが使われることについては複雑な思いがある。あまりに多くの倫理的問題がある一方で、一概に使うなとも言えないところがある。なかなか表現が難しいのだけれど、理念的に考えて、診断を医師だけに許された特権だとしたときに、精神疾患の「社会現象」としての側面をどう考えるかが問題になってしまうのではないかと思う。精神疾患の診断カテゴリーというのは批評や哲学、社会学などとのコミュニケーションの中で成立してきた側面があり、さらに最近ではそこに当事者が不在であることの反省から当事者の語ることも重要視され始めているから、精神疾患の診断カテゴリーの運用について精神医学のコミュニティだけがイニシアティブを握るべきだとは言えなくなっている。精神疾患の診断カテゴリーから社会的スティグマの側面を消し去ることができないことを前提として、個々の患者の利益に資する使用をする義務と責任を法的に課せられているのが医師だけだから、医師になら使わせてもよかろうという社会的な合意がある、というのが実際のところなのではないか。こういうのも含めたかなり色々な考えのもとでようやく、医者でもないのに診断名を使うな、と言うことができるのではないか。
この辺りの当事者が精神疾患の診断カテゴリーを使うことについては、『精神障害を生きる』(駒澤真由美著、人文書院)、『障害理解のリフレクション』(佐藤貴宣、栗田季佳編、ちとせプレス)内「精神医学の概念を用いて自己を理解すること」(浦野茂)なんかでも取り上げられていて、私ももう一度考えてみたいと思う。
痩せるために運動。ちょっとウォーキングしただけで疲れ果ててしまった。全部うつ病が悪い。
発達障害に関連した困りごとってだいたい発達障害っていうラベルなしで表現できてしまって、むしろそうしたほうが解像度が高くなることが多いので、自分はいまだに発達障害という言葉を探り探り使っている。発達障害の勉強はもっとしなくてはならないと思っている。
患者さんが精神科以外の診療科の治療を続けられるように立ち回るのも精神科医の大事な仕事だよね。ほんのりアシストしたり、フォローしたり、時には立ち回っていること自体を向こうの医者に知ってもらうのも大事で。塩梅がすごく難しいけど。
カレンダーの計算がすごい苦手で、たとえば今3月で11月が何ヶ月前なのかとかぱっと出てこない。
大学や高校なんかで卒業式があったみたいで、お花や証書を挟むやつなんかを持った人がたくさんいた。私はずっと卒業式とか何かを卒業することの価値がわかっていなくて、大学の卒業式は何となく覚えているけれど、高校や小学校は覚えていない。感情的な記憶としては幼稚園の卒園式の時の方が覚えている。子供ながらに泣いたのだ。それ以降は大人がやるイベントだと思っていたし、大人が用意したまた別の環境に乗ることになる憂鬱さの方が大きかった。大学を卒業するときも当時付き合っていた妻からもっと喜ばなきゃだめだと言われたのだけれど、あの時はよくわかっていなかった。今はそのときよりも誰かの何かの卒業を祝うことができる。自分の卒業も。なぜだろう。ようやく自分の努力を自分ごととして考えられるようになってきた。
三歳児は親の体調を心配するときに、はいしゃさんにいこうね、と言う。
映画『BLUE GIANT』観た。傑作でした。登場人物の成長物語に曲、演奏、アニメーションがばっちりはまってすごいことになっている。上原ひろみが曲をつけて演奏して、そこに3DCGのアニメーションがつく。原作の漫画がこれらの大きな仕事が出会って化学反応を起こす場となっている。それはすごいことだと思う。ラストのライブで観客が露骨に涙を流すのにはちょっと面食らったけれども私も「玉田ー!」と思いながら玉田のソロで泣いてしまった。高温で青くなる炎、汗だくの演奏に降る雪、そういう温度の感覚の対比が強い印象を残す。声優三人もよかったです。
映画『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』を観たあとたまたま入った中華屋のご夫婦がすごい仲がよさそうでよかった。あらゆる可能性のあるマルチバースを貫いて束ねるものが「家族」だという点で保守的だという意見もあるかもしれないけれど、それはそれでいいんじゃないかなという気もする。エブリンとウェイモンドの絆は、この世界のウェイモンドの優しさや忍耐という偶然に支えられているのだから。エブリンとジョイという母娘関係も、異なる他者同士として認められたときに強くなる。血のつながっていない「家族」でも可能な関係として読むことも可能な関係だと思う。まあだからこそなおさら血縁の家族の物語として描いたことに批判的な声が出るのかもしれないが。私は好きでした。
『障害理解のリフレクション』渡邊芳之「障害はなぜ「性格」と呼ばれないか」、障害概念との結合のしかたに関する個性概念との比較によって性格概念の特徴を明らかにしたのち、現在の性格研究のトレンド、今後の性格概念の変化の展望を示す。広範で包括的なサーベイに基づいていてとても勉強になった。「障害個性論」の功罪の延長上に、知的障害・精神障害者のうち「語る」能力に劣る(とされる)人が分断され取り残されている現状があり、渡邊先生がそれに強い危惧を抱いていることがよくわかる。精神障害を性格と呼ぶことを回避する論理として、身体的な要因に還元できるという想定を置くことと、性格概念が時間的・多状況的一貫性を要請することが挙げられていて、このような視野の広い理解を提示してくれるのはとても勉強になる。
5月の文フリに向けて小説を書いているけれど、最後のところで立ち止まってしまっている。自信がない。