日記2023年2月④

来年度の復学へ向けて筋力や持久力をつけるのが課題である。最近は家で筋トレをやっていたのだけれど、腰と膝が痛くなってしまった。体力をつけるための体力がない。しかし新しい運動を考えなければならないので、まずは散歩がとりあえず一番かなと思っている。町を歩いて日記のネタにすれば一石二鳥というか。

英語の勉強もやり直したい。しばらく論文を読むときくらいしか英語を読んでいない。聞きもしない。医学系の論文は全体の構成や整合性を読むものなので文章自体を正確に読むことがおろそかになる。本棚を開けたら伊藤和夫の『英文解釈教室』があったのでとりあえずそれを始める。まずはノートを買う。

妻と本屋に行った。私が出すよと妻が言うので、一冊買ってもらった。『絵本のなかの動物はなぜ一列で歩いているのか 空間の絵本学』矢野智司・佐々木美砂著、勁草書房。

子供の鼻がズビズビいう。

起きがけから三歳児の機嫌が悪い。妻が鼻をかもうとしたらティッシュを奪い取る。だってぼくティッシュとれれないんだもん! とか言って泣く。世話をしようとすると自分でやると言って怒り、じゃあやってくださいと言うとできないと言って泣く。それでも朝の準備は進めないといけないからやらせる。余計に怒る。大変である。

お迎えをした帰りに親が便意を催したのでマンションのオートロックをさっと開けたら、三歳児が突然泣いて、ぼくがやりたかったんだもん! と大きな声で言って、足をドンっと踏み鳴らして怒った。そのあとしゃがみこんで動いてくれなくなってしまって、結局泣き叫ぶのを抱えて帰った。親の排便は間に合った。

かつて、自分にもそういうことがあったと思う。とにかく大人に腹が立つ。最初は些細なことで、好きなものが食べられなかったとか、そういうふうな、思ってたのと違うことで腹が立って、それを親に伝えたいのだけれど、とにかく怒る以外にやり方がない。そのときは自分が世界の中心で、世界の全部が自分のこの怒りのために存在しなければいけないのだけれど、親も「完璧ではない」からそうはいかなくて、いつまでたっても私のこの気持ちを満足させてくれない。延々と怒り続けることになる。結局子供は、親が主であり自分が従であることを受け入れて、別のことで気を紛らわせるか、親に抱きついて慰めてもらうかして断ち切るしかない。でもあの怒りとか不満は満たされない。こういう欠落、傷を抱えて大人になっていく。この感覚は30代になっても覚えているもので、この切なさ、悲しさが、「何か」を求めて人間らしく生きていく原動力でもあるのだけれど、やはり切ないのは切ない。

『英文解釈教室』chapter1、例題1-1、主語と動詞を同定する思考過程を確認する。それ自体は難しくないのだけれども、補語であるところの動名詞に意味上の主語がくっついている形で、その意味上の主語が長いので述語動詞(be動詞)と動名詞が離れていて構文がとりにくく、意味上の主語も抽象的な語だったので意味も取りにくい。訳出するときに時制や進行形の形を生かすことまで考えると非常に細やかな作業になる。楽しい。

この日も起きがけから三歳児のお怒りがすごい。目が開かない段階でもう怒りかけている。だっこ、おかあさんだっこ、ちがう、おとうさんだっこ、おとうさんあっちいって、おとうさんのおひざでドーナツたべる、ふくろあかない、ふくろじぶんであけたかった、じぶんであけたかったんだもん。机をバンバン叩く。泣く。食べるのが遅い。用意した服をぶん投げていた。

車で出勤、登園。チャイルドシートから降ろそうとすると、あっちのドアから降りると逆側を指し、その通りにしようとするとまたこっちがいいと逆を指す。降りようとしない。時間がないので強制連行した。大泣き、大暴れの三歳児は力が強く、ブルンブルン体をよじるのに即応しながら、フィギュアスケートのペア競技のようにその都度抱える場所を変えていく。右肩の筋肉を攣ってしまった。いやだ、いきたくない、いやあ、と絶叫しながら保育園に到着して、この日はそれでも泣き止まず、出口へと駆け出して、いやだいやだと抵抗していた。対応してくれた園長先生も真剣な顔になって、丁寧に子供を抱きかかえて、親を見送ってくれた。

祝日、私の母が孫に子供服を買いたいというので父も連れてみんなで買い物に行き、食事をした。うちの三歳児にとって服は着慣れたものが一番で、新しい服となるとむしろ緊張を感じるくらいだからいつもはつまらなそうにするけれど、その日は大人のショッピングみたいに自分から服を手に取って見ていた。親からするとこれは張り切って大人に合わせているんだなとわかるから早めに終わらせてあげたいのだけど、祖母は服を買ってやりたいという気持ちが先行するからあれこれ選んで、三歳児も気を遣って試着してあげたりする。いい子にしている。

食事ももともと関心が薄くて、食べ慣れたごはん、ふりかけ、ポテトフライ、あとはわかりやすい姿のにんじんやたまねぎなら食べるけれど、見慣れないものは好まない。でもその日はお子様ランチのチキンライスを妙にぱくぱくと食べていて、親からするとそれも祖父母が見てるからがんばっているんだなとわかるのだけれど、祖父母からするとそれが「普通」なんだと思う。仕方ないとは思うのだけれど、かわいそうなのは、祖母がそのがんばっている状態を「普通」だと思って、もっとがんばってほしいとか、もっとこうしなきゃダメよとか、教育的に指摘しはじめることだ。めずらしく妻の料理の付け合わせを食べたがって、そうやって親の期待に応えようとしているのに、祖母は、それを食べちゃお母さんがかわいそうでしょ、自分のを食べなさい、と言う。せっかくがんばっているのに、余計なことをしているとみなされる。

帰りの駅で、祖父母と別れたあと、駅で癇癪を起こしてしばらく立ち往生した。親に甘えられる状況になって爆発したのだと思う。

食の楽しみを教えるのも親の役割だとは思うのだけれど、なかなか思ったようにはいかない。どうしても、盆栽を矯めるような、窮屈な力をかけることになる。文化という人間的なものを人に導入するのは、痛みを伴うサディスティック・マゾヒスティックな営為だと思う。

この前うちの三歳児が登園時に大泣きしたのをうけて、保育園の先生がミーティングを開いてくれたらしい。園で何か変わったことがなかったかとか、他の子はどうかとか、なんで怒っているんだろうとか、そういうことを先生同士で話してくれたみたいである。一緒に考えてくれると心強い。結論から言えば、まずは先週から園で流行っている鼻風邪で体調が悪いからいつもより機嫌が悪いのだろう、そして、園にいるあいだは年下の子の面倒を見たりしてがんばっているから、その分両親といるときは甘えているんだろうということだった。今の時期は心もグッと成長しているから、こういうこともあるでしょうと園長先生は言っていた。園でも先生に抱きついたり飛び乗ったり、そういう甘えかたをしているということも聞けてよかった。

心が成長するというのは社会化されることでもあって、プラスにもマイナスにも人のことを察して影響されて振り回されて、その中で自分というままならない像を組み上げて壊さないようにそっと持ち運ぶような、そういう難しい仕事をしている。ときに自分のまとまりが崩れかかって、綻んで、恐怖とか不安とか、いろんな感情が溢れてきてどうにもならなくなるときがある。

夜、「あっというまにやっと寝た」みたいな寝方を子供はする。

結局散歩や街歩きは全然できなかった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?