日記2024年3月⑩
3月29日
雨と強風で出かける気を失っていたら夕方まで寝てしまった。多和田葉子『ウタカタのたわごと』を読み始めた。いつもの多和田葉子らしい言葉遣いのエッセイだなあと思っていたらデビュー直後の文章だと知って驚いた。完成している。おそろしい。夕方、雨風は止み、気温が上がって西陽が暑かった。最近天気と心理を同じようなものとして見ることについて東畑開人さんが再考している。心理は天気そのものである。幼稚園の迎えの車の中で寝た子供が到着後も起きず、しばらく駐車場で寝かせた。『イギリス人の患者』を読む。第二次大戦時のエジプトでのイギリスとドイツの戦い。私はこのあたりの歴史を全然知らない。男は砂漠に墜落した飛行機からベドウィンにより助けられた後、素性不明のまま連合国軍に預けられ、進軍とともにイタリアを北上してフィレンツェ付近の屋敷跡の野戦病院に辿り着いた。男は戦線が移動した後も廃墟同然の屋敷に看護師のハナと残ることにする。屋敷にハナの父親の友人であり連合軍のスパイをしていたカラバッジョ、イギリス軍の工兵で爆弾処理を専門にするシーク教徒のシンが訪れ、共に過ごすようになり、読者には少しずつ男の過去が明かされ始める。男はハンガリー出身の冒険家で、エジプトの砂漠の地理、歴史を解き明かしてきて、戦時にはドイツのスパイとなった。男は恐ろしく博識である。それゆえに飛行機事故で全身を火傷してもベドウィンに利用価値を認められて生き延びた。男はヘロドトスの『歴史』の余白に註釈だけでなくあらゆることを記録した。この小説は歴史についての物語でもある。過去を焼失した男が戦争で朽ちかけた廃墟の一室に臥してあらゆる歴史を語る。それこそが戦後なのだろう。新たにヨーロッパが戦時下にある今、歴史を語ることがどのようなかたちをとるか、誰がどのように語るかということが大きく変わっているのかもしれない。そもそも中東やアフリカでは断続的に戦争や紛争が続いたがそれらは周辺的な出来事とされてきた。私はあまりにも歴史を知らない。小説は大きな歴史の中で個人の歴史を再生していく。若い工兵・爆弾処理班のシンの過去を語るⅦ章で「歴史」という言葉が使われる箇所がある。「心に歴史をもち、無数の瞬間や出来事に個人的な思いをもつようになってからのシンには、ホワイトノイズが必要になる。白い騒音ですべてを覆い隠さなければ、目前の問題に集中できなくなる。鉱石ラジオとそこから流れ出る大音量のバンド音楽が、実人生の雨からシンを守る防水シートになる」(p.232)。終わらない爆弾処理という殺し合いの中でシンはイヤホンから大音量を流して爆弾に向き合う。心の歴史を消す。小説がそれを語り、再生する。この小説は歴史についての小説でもある。
今夜は妻が当直なので私と子供の二人だけである。夜寝るときに私の額を触って「かたいところは骨がはいってるの」と訊く。頬を触って「やわらかいところは肉がはいってるの」と訊く。そうだよと答えると子供は「ほっぺたがかわいい」と褒めてくれた。眠った子供はどんどん体をよじらせて、布団を横断するように寝たので、面積としては空いていても親の寝る場所がとれなかった。
3月30日
小説とはどういうものだろうと疑問を持ってから読むだけでなく自分なりに書いてみたりもしたけれど、やはり小説というものがよくわからず、小説を書くことについては特にわからない。誰が語っているのか。書いているのは私なのに、違う「私」が語らなければならない。むしろ私は聞いている。だけども書いている。よくわからない。お話を作るということとはまた違う水準である。誰かが誰かに誰かのことについて語っていて、私はそれを聞いているが書いてもいる。どういうことか。自分の書いたものをまたよく読み直さないといけない。
暖かくなって天気がいい。
妻が無事に妊娠していた。少し前からわかっていたが順調に続いていたみたいでよかった。あとは無事に生まれてくれれば、と言うのは簡単なのだがそれはただ口を開けて待っていればいいということではなく、色々と準備が必要である。ベビーカーやチャイルドシートは前に使ったものがあるからいいとして、ベビーベッドなんかは前はレンタルで済ませたので今回どうするかまた考えないといけない。あとは4歳児の七五三である。11月だとちょうど新生児がいる予定なので厳しい。夏にやるか。あっというまに夏が来る。
日が暮れてから近所のお祭りに行った。屋台が出ていた。子供は「おまつりこわくない?」と心配していた。初めて射的をしたが全く当たらなかった。子供はチョコバナナを食べ、私は焼きそばともつ煮を食べた。今年は開花が遅くて桜は咲いていなかった。そのぶん空が広かった。お祭りで緊張したからか、帰ってから子供が変にハイテンションで飛び跳ねたりして、遅い時間なので勘弁してほしかった。私はこういうときに子供と同じ温度にあわせて対応することができず、余計に冷たい態度をとってしまう。嫌な思いをさせるからなおしたいところのひとつである。
3月31日
今日もまた午前中ずっと寝ていた。とにかく眠い。調子が悪いのかもしれない。そういえばこの数日なんだか鬱々としていた。何かしたいけど何もできなくて罪悪感が募る。こういうときは待つしかない。たいてい「何か」とか「何も」とか言っているときの「何」は人の真似をしようとしている。こういうときは考えごとをしながら寝たり起きたりで過ごしていいのだろうと思う。考えるということが邪魔者にされがちに見えるのは精神科の医者をしているからだろうか。いい結果を生まない思考を減らしたい、かといって考え方を変えようとしても益がない。そんな悲観論が思考というものを取り巻いている。もちろん認知療法の専門家はそうは思わないだろうが。一方で、浮かんでくる思考をそのまま観察したり受け止めたりする方法が用いられる。ACTやマインドフルネス。思考から距離をとる。しかしここでもやはり思考は非本質的なものである。邪険にされている。嗚呼、かわいそうな思考。苦しんだり傷ついたりしながら考え続けるのもたまにはいいではないかと思う。考えることくらいしかできないから考える。横になってただ考える。あるいは思い出す。そしてまた考える。なんだか普段と違うことを考えられればそれでいいのではないか。
そうこうしているうちに煮詰まってきて、やっぱり何かして体を動かしておいたほうが気が楽かもしれないというタイミングが来、妻のほうも何か食べたほうがつわりが楽かもしれないというタイミングになり、しゃぶ葉に出かけた。食べる量を自分で決められるのが気楽との由。休日の夕方は部活帰りの高校生が多い。大盛りご飯で食べ放題の肉を食べていて神の恩寵に与っていた。
本屋で図鑑を買った。講談社の『宇宙』。最近子供が月や地球に関心がある。まだ少し難しかったみたいだが、土星とか木星の名前を覚えていた。他に町屋良平『生きる演技』。そして杉田俊介『糖尿病の哲学』。柴崎友香『百年と一日』、文庫で買い直す。単行本の内容にひとつお話が増補されているらしい。
出かけてよかったと思った。
『イギリス人の患者』の読書が終盤に入っている。患者とカラバッジョ、若さと体の自由を失ってモルヒネに依存している2人が過去の事実を語り合う。過去に何が起きたのかを確認する。砂漠を解き明かす冒険と、恋愛、近づきつつある戦争が交差し、互いを破壊して、戦争だけが続く。過去を消失して男は生き延び、ハナとシンという若い「戦後」に出会う。男の退場が見えてきつつある。どのようにこの小説は終わるのだろう。男にはもう未来がなく、過去は全てに答えが出ていて、無感動である。男のこのある種のメランコリーがどのように戦後、傷ついた未来に託されて接続するのか。もう少しで見えてくる。
明日は大学病院の新入職員の研修に出なければならない。
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