日記2024年10月②
10月6
揉め事。BTSのDynamiteを聴いてから4歳児がそれっぽい歌を歌っている。
10月7日
揉め事。
子供が何をよいものと感じ何を悪いものと感じるかという価値観を親は巧妙に誘導することが可能で、それはある程度は当然なことでもあるけれどもよくよく見れば驚くほど強く長く子供の考え方や嗜好を左右することがある。「なによりも素晴らしい」ものを親から与えられてしまってそれを更新することができなかった子供は実は困難を抱える。子供が「好き」なものを与え続けることで親はいつまでも子供を自分の子供にしておくことができ、子供は自分が「好き」なものをどうしても手に入れたいと人生を賭けて思うわけだがそれは常に自分の人生を殺すことでもあって、これはどちらを取っても必ず何かが失われる選択である。そういう人は長じてからあらためて極めて意識的に自分に固有の「好き」の体験に出会いなおさなければならないが、それは非合理的な領域にあるのが常であり、何かの必然として一意に帰結するものではないために、試行錯誤の過程で析出するものであり、しかしながら意識的に探索されなければならないものである。この過程もまたそれまでの自分と親を殺す作業であり、要は自分も親も悲しむことであるから、痛みを伴うのである。
妻の妊婦健診。37週正規産の時期に入った。子供は推定体重が3300gを超えていて、このまま40週まで待つと簡単に3500g超えてしまう。よく歩いて早く産まれたほうがいいですねと言われたそうだ。
10月8日
初期研修医の先生が陪席する中で外来をした。説明するたびに感心してくれるのでおもしろい。夕方のカンファの後でパニック障害について質問されたので上司と私で囲んで説明を浴びせまくった。帰ってから私もパニック障害について調べ直して勉強になった。たとえばカナダのグループの作ったガイドラインを読むと、広場恐怖を伴うのか伴わないのかを分けて説明する箇所が複数ある。パニック障害の多くは広場恐怖を伴っているので治療ターゲットは広場恐怖になるのだが、広場恐怖を伴わない例では別の回避対象が生じて別の社会機能の障害が現れるはずなので別の治療ターゲットを考える必要があるということに気がついた。2016年発表の厚労省のパニック障害への認知行動療法マニュアルはほとんど使われていないと思うのだが、実は後者の例に使える。しかし多分に認知療法的なアセスメントと介入技法を用いて「安全行動」や「破局的思考」の修正と「注意シフト」の訓練に力を入れるので臨床的な感覚から言うとまわりくどくて使いにくい。より行動療法的なアプローチで身体感覚への恐怖と回避をアセスメントして身体感覚への曝露療法を設計した方がいいのではないかなと思った。勉強しがいのあるところである。
そんなことをずっと考えていたら、非常勤先の初期研修医に教える内容をそんなにずっと考えているのは異常だよと妻に言われた。
10月9日
雨。今日も外来に初期研修医の先生が陪席した。診察の前後で彼に説明する時間が発生するので倍以上話すことになり大変疲れた。精神科医をやっていてプライベートでの人との接し方に影響はありますかと聞かれ、どうなのか自分でもよくわからないから返答に困った。あるかもしれないしないかもしれない。少なくとも患者さんの話を聞くように妻の話を聞くことはない。それは全然違うことである。患者さんの話を聞くときには常に頭の中でその時点での精神科的な評価を再確認したり組み替えたりして自分の行う対応を選んでいる。共感や傾聴などの方法もなんとなくやるのではなく意識的に選んでいる(それしかできることがないという消極的な場合もあるがそれでもそれが正しいかどうかは考える)。ちなみに支持的精神療法にも一応教科書のようなものがアメリカで作られていて日本にも翻訳書があり、リフレインやサマライズやリフレーミングなどの技法がまとめられているのだが、大事なのは技法の前にその人の強みや資源をアセスメントしておくことで、そのアセスメントがあるから何に対してリフレインで強化し(これは動機づけ面接にもつながる)、何を焦点にサマライズし、何を強調するためにリフレーミングするのかがわかるのである。初期研修医の先生や学生はよく精神科医の仕事をしていて気持ちを病んだりしないのかと聞いてくるけれど、私の答えとしてはこのようにずっと頭を使ってできることを探しているので気持ち的に病むということはほとんどない。それがいいのかわからないが。
初期研修医の先生に、毎日その日みた症例の振り返りをし続けると力がつくよと伝えたのだが、毎日ずっと患者さんの治療のことを考えていたからうつ病になったのかもしれず、話しながら自信がなくなった。
夜は散歩がてら中華屋に行った。たくさん食べた。学生時代から行っている中華屋で、もしかしたら初めて妻に会ったのはこのお店での部活の新歓イベントだったかもしれない。お店のおばちゃんも覚えていてくれて子供といくと喜んでくれる。中華屋でかいた汗が冷える季節になってきた。
10月10日
昨夜妻はお腹が張って、陣痛が来たかと思ったが今回はおさまったらしい。
昼前に妻とファミレスにいたら離れた席に部活の先輩(看護師)がいて、久しぶりに話した。平日の昼からファミレスにいたから「仕事してるよね?」と率直に聞かれ、一応してますと答えた。妻の妊娠に気づいてしばらく子供の話をした。先輩のところも5歳差の兄弟らしく、5歳差はいいよ〜と言っていた。
妻と一緒に子供のサッカー教室のお迎え。先日一緒に遊んだ子のお母さんが赤ちゃん用のおくるみをくれた。貰い物だったそうなのだが季節が合わず使わないままサイズアウトしたらしい。そのほかにも色々くれた。優しい。もらってばかりの我が家である。明日から幼稚園が短い秋休みに入るので妻が子守りをする負担を心配してくれて、うちで一日預かってもいいですよと言ってくれた。そのお母さんも臨月の時にはずっと寝ていたくてしんどかったらしい。私が仕事の日にお願いするかもしれない。
別のお母さんが妻の妊娠に気づいて話しかけてくれた。これまでは挨拶する程度だったのだが嬉しそうに話しかけてくれて、聞けばその人は看護師さんで、新生児科で働いているプロだった。運動をして陣痛を誘発するのはいいが、あまりやりすぎるとお腹が張って(子宮が収縮して)胎児心拍が低下してしまうからそれもよくないといっていた。
会う人がみんな妻の妊娠を気にかけてくれた日だった。
張江浩司さんの記事。分娩の痛みが無視されていることについて書かれている。分娩する臓器を持たない男性が女性の分娩の痛みについて書くのは難しい。張江さんも「けっきょく、あの凄惨ともいえる出産にまつわるもろもろを的確に表現する一文を、私は見つけることができないでいる」と書く。同じ体験をすることができない他者の体験について人はどのように語ることができ、どのように語るべきなのか。私にもわからない。しかし、他者の「他」性というのも必ずしも絶対的なものでもないだろうとも思う。他者との同じでなさも時と場合によって違うし、違いというのも認識論的なものとしての側面があるだろうと思う。人間は人間の外に出られないのだから、人間の世界の内部で語るなり、生きるなりすることを通じて他者と通じ合う瞬間を待つ必要があるのだと思う。違うのだけど、通じることもできる。
夜は秋刀魚の塩焼き。大根おろしを多めにした。すだちを絞った。